2015年(平成27年)3月・春40号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

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 駿河湾から吹き上げてくる西風が強く、棚田に人影はない。石部集落の坂道を竹製の大きな背負い篭を背負って、大股でずんずん登って来る女性がいた。畑に大根を採りに行くのだと言う。同行を願って付いて行くと、段々畑にある畑は、頑丈な檻のように鉄パイプと網で囲われていた。猿が作物を荒らすため、全面的に囲って防御するしか方法がないようだ。どの畑も人間が檻の中で仕事をする状態になっている。髙橋 淑子(たかはし よしこ)さん(72)は、経営している民宿に畳職人が仕事に来ているからと、大根5本と菜花を少し収穫して、足早に帰って行った。

坂道を海辺の方へ下っていくと、石垣の上の家で何やら作業をしている話声が聞こえる。先日採ったヒジキを大きめの段ボールの箱に入れて、干しているところだった。

|「箱に入れて干せば、風が吹いてもヒジキが飛ばされないがよ。今日で3日目かな。土曜日に刈って、煮たがよ。ほとんど乾いてるけど、さぼし(仕上げ干し)してんだよ。140キロがを3時間煮て、ひっくり返して、また2時間煮て。石部のヒジキは、よく煮えてるって評判が良いがよ」

|「昔は、個人で(ヒジキを)刈ってたけど、今は共同で刈って、波止場でみんなで同じに分けるから。今は楽になった。嫁さんが他所から来た人は、慣れてないからよ。漁協に海藻料3000円払ったら、生で140キロ。だから不平等はないな」

髙橋 好美(たかはし よしみ)さん(81)は、威勢の良い口調で話しながら、段ボール箱のヒジキをひっくり返している。

|「まったく寒いな今日は。意地が悪いな、お天道さんは。今は天気に関係なしに出ていけるからさ。便利になったね。バスが通うようになるまでは、ポンポン船で松崎まで買い物に行ってたがよ。朝、昼、夕方の3回のポンポン船。その時間に遅れると、山道を歩かなきゃなんねえ。民宿するつもりじゃないがだったから。おやじさん(夫)は船に乗って、半年も帰ってこねえから。米も野菜も作ってっから、お客さんが寝てるうちに田んぼの水を見に行ってさ。だからさ、今になって、膝が痛いのだからさ。男の人は皆、船に乗ってたから、どこんがいにも(どこの家でも)。だからさ、その間さ、何をやるにも、みんな女。子どもらも父親を見て、『どこのおじさんずらよ』って言うがよ。おやじさんが子どもに何か言い付けてもよ、『それでええが』と私に聞くだもの」

 ヒジキ干しを一緒に手伝っていた夫の義一(よしかず)さん(84)は、好美さんの話を聞いていたのか、聞いていないのか。「69歳まで船に乗ってたからさ。アフリカは行かなかったけど、他んとこは、ほとんど跨いできたね」と、船に乗っていた当時を思い出しているようだ。

 

集落の露地を歩くと、あちらこちらでヒジキを干しているのを見かけた。その中に庭に広げたブルーシートに背を丸めて座り込み、ヒジキからゴミを取り除いている姿があった。先日の強風で、ヒジキにゴミが混じり込んでしまったようだ。声を掛けようと、私が近付いても気付かないほど集中している。

|「石部で生まれて石部の人と一緒になったんだけどさ。若い時には、東京に居たこともあるよ。今は、松崎までバスで買い物に行ったりさ。お天気が良くて温かい日には畑にいったりさ。でないと楽しみがないからさ」

鴻野 敏子(こうの としこ)さんは、96歳で独り暮らしをしていると言う。

|「3か月に1回、定期的にお医者へ行くとさ、『どこも悪いとこないよ』って褒められてきますよ。この状態で、何とか無事に神さんが連れて行ってくれないかとお願いしてますよ。自分のことは自分で出来ているうちによ」

こんな話を聞かせてもらった翌朝早くに、集落の上から坂道を下ってくる敏子さんに出会った。

|「上の家で、ヒジキを採る網を借りてたから、今朝済ませて(返して)きましたがよ」

敏子さんは、急坂を1時間掛けて歩いて上った帰り道だった。自宅の前まで一緒に帰って立ち話。

|「やったことないのにさ、ここの主人(舅)が農業に熱心でさ、教えてもらって。田んぼが2反5畝ありますけんさ。耕耘機入れたのが、石部で一番初めでした。子育てしながら、山の中の畑を、よくやったと思いますよ。畑も2反ぐらい作ってたと思いますよ。今は、行かないけんども、雑木林になってんでしょうけんどよ。戦後は、農業やんなきゃ食えなかったから。浜で塩焚いてさ、物々交換にどこだったかな、電車で塩背負ってさ、そんなこともあったさ。針仕事が好きなもんでさ。着物でもさ、布団でも何でも、みんな自分で作ってさ。昼間は田んぼや畑に行ってんだからさ。そんなことをやってましたよ。もう50年も前の話ずらな」

明日は、松崎のスーパーマーケットまでバスで買い物に行くのだと言う。

|「3000円以上買えば届けてくれるから、助かりますよ。宅配便で来るわけ」

あれ程強く吹いていた西風が収まって、穏やかな暖かさが戻った午後、棚田へ上ってみると、その日も靖さんは畦の草刈りをしていた。

|「本当の百姓のやり方は、夏の暑い時にカヤを刈るがですよ。それをボッチと言って山の形に積んで冬を越すがです。春に畦を塗って代掻きしたら、田植えの1週間くらい前にカヤを敷き込んで、耕耘機の小さいので踏み込んでやるがだから。先人がそうやって土を増やしなさいと、やってきてますからね。田んぼから出る時には、田んぼの土を外へ出さないように、田靴に付いた土を田んぼの水で洗って出ろって、うちの親父から教えられてっから。先人の教えは学ぶことあるな。棚田っていうのは、すばらしいとこだなあって思うよ。田植えの頃に田んぼに行くと、カエルがガッコガッコ鳴いてんですよ。僕が田んぼで代掻きしてると、みんな畦に上がって僕の仕事を見ててね。代掻きが終わったら、またガッコガッコ鳴いてね。応援してくれてるなって思ったね」

下の方の棚田でも誰か、作業をしているようだ。イノシシ除けの柵を頑丈に張り巡らした田んぼで、髙橋 治(たかはし おさむ)さん(73)が、左胸のポケットに入れたラジオを聴きながら、水口を補修している。

|「棚田保存会では若い方だよ。田んぼは8畝ぐらいで、2か月に1回、精米したのを2人の子どもに送ってやるだよ。若い時は、造船所に40年ぐらい居たかな。中学下がって(卒業して)、すぐ行ったな。そこでクレーンの免許取ったりな。朝、4時起きだよ。田んぼやって、それから仕事だよ。仕事から帰ってきても、暗くなるまで田んぼやってたよ。男手一つだったから、お袋さんのやるのを見ながらやったさ。自分で食うだけしか、どうせやんないからさ。子どもたちに送ってやるのもあるからさ。南アルプスは見えるさ。富士山も上に上れば見えるだよ」

治さんの田んぼの端に直径3メートルほどの大きな岩が転がっている。

|「この石は昔、いつだったか分かんないけど、山津波っていうのがあったんだって。その時に、転がってきて、ここで止まったんだって。昔の人が、そう言ったらしい」

どうやら今から200年前の文政年間の災害時に、上の山から転がってきた岩のようだ。治さんの棚田から駿河湾を見下ろすと、対岸の焼津市辺りが霞んで見えている。この風景に、いつの時代も大きな変化はなかったろうが、石部の暮らしぶりは、海岸道路の開通によって大きく変化した時代があった。高度経済成長期からバブル経済の沸き立つ時代を経て、今もう一度、棚田と海を礎とした半農半漁のかつての自然の恵み豊かな暮らしを取り戻そうとしているように思えた。

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