2016年(平成28年)5月・初夏47号

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赤和瀬集落最後の木地師が作った大きな盆があると聞いて、小椋美智(おぐら みち)さん(79)を自宅に訪ねた。奥から引き出してくれたのは、直径1m以上もある大きなトチノキの大盆だ。

|「藤吉爺さんいうのがおったんじゃけど、藤吉爺さんが作ったもんか、次の爺さんはあんまりせなんだじゃけ。次の私の主人が、少しはしよったんじゃけどな。おおかた藤吉爺さんじゃ思う。死んでから60年ぐらいなるかな。84歳で亡うなったんかいな。嫁に来た時には、藤吉爺さんはもう年だったけんな。(木地師は)やってなかった。これ作ってから、もう100年どまなるんじゃないん。継いでないけ、一本の木から作り出しとると思うよ」

|「大きな盆は大勢寄って酒飲むのに、盆の周りに胡坐(あぐら)かいて、縁に盃を置いて酒を飲みよった。昔は、台所周りはムシロじゃがな。その上にこれを置いて、はよ言うたらテーブル替わり。真ん中に七輪置いて炭起こして、すき焼きして食べよったみたい。ウサギを獲ったりして、猟に行きよったんじゃけ。それを食べるのに、あんたもあんたも言うて近所へ声掛けて、酒飲んで話しするのに使いよった。大きいのがもう一つあったけど、穴が開いて捨てちゃったわ。もったいない言うたて、昔じゃけ。それこそ友だちが来て酒飲んだりしよりゃあな、長い時間が掛かるがな。七輪じゃけ、火は下に通っとらんつもりでおったんじゃけど、やっぱり長い時間、火を継いでおったら通ったんじゃがな。真ん中に穴開いてしもて。私の主人が、まだ若かったんじゃけど。名前は一正(かずまさ)いうんじゃけどな。それが時々、お汁椀こしらえたりしよったんじゃ。川の上に古い水車小屋があって、水車でロクロを回して、ほいでしよったんじゃ。それが39歳で亡くなったもんで、ほじゃけ道具を出したりしてから、止めてしもうたがな」

赤和瀬農家組合が鏡野町の指定管理者として運営する「うたたねの里」の「木地師の館」に掲示されている文書によると、赤和瀬に木地師が居住していた最古の記録は、明暦3(1657)年の氏子狩(上納金を納めさせるための名簿)で、7名の寄進者がおり家族を含め59名がいたと推定される、となっている。

 もう一つの記録として手元に、活字のように端整な手書き文字で書かれた謄写版刷り18ページの小冊子がある。表紙に「小椋姓の由来」とあるが、著者の名前はどこにも出てこない。岡山大学教育学部地域研究会の報告書「中国山地の村」(昭和51(1976)年発行)によると、この冊子の著者は小椋美博となっているが、経歴は不明だ。

 「小椋姓の由来」には、現在も滋賀県東近江市にあり木地師の業祖と伝わる惟喬親王(これたかしんのう)を祭神とする筒井神社の氏子狩記録として、江戸時代初期に当たる正保4(1647)年、赤和瀬に14戸、赤和瀬奥山六分に18戸の木地師が居住している、とある。

 どちらも真偽のほどは確かめようはないが、江戸時代初期の頃から木地師が赤和瀬に居住していたのは確かのようだ。「小椋姓の由来」を読み進むと、著者である小椋美博氏の赤和瀬に対する深い愛情が伝わる記述に出合うことができた。少々長いが引用します。

 

 「ろくろ師」ほど自己の技術に自負心を持って精進した技術者は少ない。その内包する不退転の精神は偏に惟喬親王に発源したといっても過言ではない。千年に垂んとする歳月を人跡稀な山間幽谷に居を構え、里人の悪口雑言にも超然としてあらゆる欲望を抑えて、ただ生業一筋に生き継いだのである。(中略)

 赤和瀬は冷水稲の赤い稲を示すものと思われ、文学的郷愁は存するも古くより赤和瀬の文字を使っている。

 私見を許されるならば、この地に土着した先人は田地を開き赤い早稲を植えたのであろう。「赤」は赤い早稲の「赤」である。「和」は「やはらぐ」「あたたか」の意で和合である。「瀬」は「あさせ」「はやせ」「はやい流れ」の義で「清い流れ」のところである。赤い早稲をつくり和合による平和の郷を築いていく清らかな土地を意味するものと解する。奥山に瀬の字を用いたところに妙味がある。中津河にしても亦然り。われらの先人にも又よく文字を解し深く考えた賢明の士のあったことに驚く。

 

 著者の小椋美博氏が何者であるかは不明だが、赤和瀬に対する深い愛情が滲む文章と「小椋」姓であることを考え併せると、赤和瀬集落出身者であろうと想像できる。これほどまでに故郷に愛情を注ぎ、誇りを持つことができる人生も又、豊かであったろうと思うと気持ちが浮き立ってくる。

再び雅雄さんを訪ね、美智さんから聞いたウサギ獲りについて、詳しい話を聞いた。

|「冬の猟期いうたら、今は10月15日からやけど、前は10月1日からやりよったけんのう。秋の仕事が終わったら猟やりよったけん。それで3月までじゃからなあ。今日は、ええ日じゃいうんが、一年に1回か2回あるんじゃ。朝にな3時頃になったらぱっと雪が止むん。そしたらそれまでに付いとった跡が全部消えちゃって、3時から先の跡だけ残るの。夜明けまでの跡しかないんじゃけん。狭ーい6畳か8畳ぐらいのとこにしか跡がないわけ。いっつもウサギが居るとこは大体その中にあるけん。行って跡があったら、あそこに居る居ると見てな、寝屋があったら、ウサギの上から行かないけん。下から行ったら飛んで逃げてしまうけん。向こうも見とるけん、そこに何か置いとくん。着てる物か何かを置く訳じゃ。で、後ろへ下がって行く。ウサギが気付かん間に、ぐっと廻って上から、『こりゃ』言うたら飛び出るけん、ダーン。面白いで。そりゃ独りで行くんや。ウサギ撃つのは散弾銃。1号から弾が小もう小もうなるんじゃけど、鳥撃つのは5号くらい。ウサギは1号から3号の弾なんじゃ」

|「ウサギ獲って料理して食べちゃうんよ。あれ一番美味しい。そりゃもうすき焼き。あれ脂がないからな、あっさりしとるんじゃ。イノシシみたいに脂いっぱいじゃないけん。みんな食べちゃうんだから。田植え終わったら水周りも見らないけんし、6月になると、こんだアユの解禁があって、9月26日までやけん。それをずっと行きよったんじゃけん。毎日毎日。田んぼの畦の草を刈らずに行きよったんじゃ。帰ってみたら、女房は人頼んで刈っとったんじゃ。それでも6月初めは、ちょっと(アユが)小まいから面白ないわ」

雅雄さんの話を聞いていると、ほとんど一年中、山や川で自然を相手に遊んでいるように思えてくる。しかし、雅雄さんから戴いた名刺を見ると、15もの肩書きが並んでいる。それぞれの肩書き毎に役割や会議があるだろうが、どうしているのだろうか。「そじゃけん、割合忙しいんぞよ、ほんに」と、屈託がない。

 雅雄さんには、肩書きに書かれていない役割もあった。後出の「土地の香り 家の味」で訪問する「うたたねの里」の指定管理者である赤和瀬農家組合の理事も務めているのだ。

 「ここらの集落で、赤和瀬だけ地元で働くとこが無かった訳じゃ。冬は恩原高原スキー場があって皆行くんじゃけど、ここらも行くんじゃけど、普段の働く場所が無かったけな。こっちもそういうのしよやいうて、(鏡野町と合併する前の上齋原)村の折にな。「いっぷく亭」で使いよる茅葺き屋根の家は、この上(かみ)にあったんじゃけど。新しいの建てるいうけ、ほんなら、それ貰って何かしよやいう話で、村が全部移築して全部整備してくれた。村の時代は金があったからな。割合人が来るんじゃ。そら、えかった思うで。賃金で700万円ぐらいは、この地区に落ちよるし、材料代やなんか、みんな山から採ってきたら、そんなお金みんな材料代で落ちよるし。冬やったら景色ええわな。でもお客おらんからな。12月初めから4月の第2金曜日まで冬期休み。それでも毎日、火を焚かないかん、火を焚き行くん。あれ茅葺き屋根、煙出さんともたん。すぐ屋根腐っちゃうし。町から指定管理もらっとるから、ちゃんと管理せないかんから」

 実は、赤和瀬農家組合の事務局を務め「いっぷく亭」の責任者として現場を取り仕切る小椋隆子(おぐら たかこ)さん(69)と、雅雄さんとは夫婦なのだ。赤和瀬集落に貢献する雅雄さんと隆子さん夫妻の熱意で集落が結束しているように見える。平日でも「いっぷく亭」には遠くからの客が訪れていた。中国山地の峠を越えて鳥取県北栄町から来ていた馴染みの客女性3人組が、「ここは夏来なさい、涼しいよ。扇風機もいらん。お客さんが少ない時を狙って来て、ゆっくりさせてもらうんや」「ここから見る風景は絵を見るようで綺麗ね」と、「いっぷく亭」の身内のようにその魅力を私に話す。

 その女性3人組は、帰り際に厨房で仕事をしていた水島佳子(みずしま よしこ)さん(75)を呼んで、名残惜しそうに別れの挨拶をしている。「また来るけん、あんた絶対辞めんとってよ」と、手を取り合っている。水島さんも「ラッキョの仕事が始まって忙しくなるから、その前にゆっくりしよと思って、来てくれたらしいで」と、嬉しそうだ。

 

|「いっぷく亭」の賑わいを見ていると、赤和瀬集落の活力を感じるが、高齢化の波は確実に押し寄せている。勤務の関係や子どもの教育環境が原因で若い世代が集落を離れているのだ。31戸のうち、小中学生の居る家庭は1戸だけになっている。今年度から上齋原中学校が閉校になり、町内では鏡野中学校の1校に統合されたばかりだ。

 区長として雅雄さんも危機感は持っているが、大きな社会の流れは止めようが無い。

 「若い者がどこに勤めるかで全然変わってくるで、息子が勤め先近くに家建てるのは出城じゃから、立派にしたらいかんぞ。立派なもん建てると本丸になっちゃうぞ、言うとるんよ。あんまりええの建てると、ほんま帰ってこん」

 学校や職場の問題だけではなく、農業の分野でも農協の統廃合が進んでいる。小雨の降る中でトラクターに乗って代掻きをしていた高田美佐穂(たかだ みさほ)さん(59)の話だ。

 「2年前から会社始めたけん。これは会社の田んぼよ。上齋原農協が赤字になるから止めるいうてな。そしたら皆が困るいうて、村内でようけ株主になってもろうてな。上齋原で専業農家は1軒か2軒じゃ思うよ」

 高田さんの話しぶりは、勢いがあってやる気充分だった。逆境をテコにして自らを奮い立たせているのだ。高田さんも決して若い世代ではないが、高田さんのように前に進もうとする姿勢を見ていると、私まで元気を貰った気分になれた。

取材最終日は、数日続いていた雨模様から一転、晴天の朝だった。日の出前から刻々と移り変わる空の色を眺めていた。透明感のある朝の空気が清々しい。やがて赤和瀬集落の家々を朝日が照らし始める。水田が輝きまぶしいほどだ。昨日までの雨で湿っていた畦の土が、朝日に熱せられて水蒸気を上げ始めた。新緑に輝く中国山地の木々が、立ち上る水蒸気の中で幻想的な風景を作り出す。勤さんが話した息を呑む美しい山里の風景が目の前に広がっている。太古から繰り返されてきた美しい自然が、赤和瀬の人びとを励まし支えてきたと実感した。

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