2016年(平成28年)3月・春46号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

〒880-0804 宮崎県宮崎市宮田町10-22-203

大阪府の最北端にあり「大阪のてっぺん」と愛着を込めて呼ばれる能勢町。町役場から竜王山北側の名月峠を越えると田尻地区である。県道106号線と県道4号線が交わる交差点近くに「農事組合法人|田尻農産」が運営する販売所「よっといで田尻」がある。店を覗いた土曜日の午前、組合長の中植靖生(なかうえ|やすお)さん(71)が店番をされていた。

|「平成17(2005)年に農協が西能勢へ統合して行きましたんや。それから皆で30回以上寄って、それで平成19(2007)年2月に田尻農産を立ち上げたんですわ。幼稚園がなくなり、郵便局がなくなり、店が一軒もなくなりましたからな。どこの家でも野菜を作りはりますわな。『どうぞ食べて』と言われても、ただでは貰われへんわね。ほんなら売ってもろたら『お互いええ』いうことですわ。農協の田尻支店が無くなったのが、ほんまの発端ですわ」

田尻農産では、1)農作業の受委託 2)貸し農園 3)農産物の販売が、主な活動だ。

|「下の県道沿いの倉庫から始まって、ここに移転して3年目とちゃうかな。加工部と生活改善グループも一緒になって、何とかしてね、ここ田尻地区を盛り上げていこうと、立ち上げて10年目ですけどね」

東藤木集落の愛宕さん。以前は8月24日、

ここに手肴を持ち寄って祭をしていた

絹糸を生産していた屋敷の裏に、

桑を保存しておく穴が残っていた

東藤木集落で、鹿の路になっている場所を

案内してくれた川勝さん

地元露地野菜を並べる棚には、出博資(いで|ひろし)さん(82)が出荷したばかりの長短さまざまな大根、掌ほどもある大きな椎茸、青々とした壬生菜(みぶな)などが並ぶが、棚には空間が目立つ。2月3月は、寒冷のために露地野菜の出荷は難しい時期なのだ。美谷啓子(みや|ひろこ)さん(80)が、小松菜を出荷に来た。

|「若い人はほとんどお勤めでね。定年になられて元気な方が大きく野菜作りされておられますけどね。小松菜は200グラムで100円です。お金のことより元気で仕事できることに感謝してるぐらいですわ。去年12月に蒔いた種ですけど、冬越しで。10袋出すと売れるのに3日ぐらい掛かりますからね。他の人のもありますから」

田尻農産の組合員は現在57人。「田畑を持ってはる人に1口1万円で入ってもらってます。非農家は準組合員で1口3千円の入会金いただきます」と、中植組合長。

そんな話を聞いていると、中垣内貴美子(なかがいち|きみこ)さん(69)が、私の腕をとって味噌の棚へ案内した。

|「ねね、インターネットに出してくれはるんやったら、喫茶部とお味噌宣伝しといて。作り手はシルバーやけど、技術はゴールドね。手造り無添加の『田尻味噌』なんよ。能勢の米と麹を使うて、大豆は国産で麹は2倍。豆1麹が2の割合の味噌。ちょっと甘めで1キロ750円」

中植さんとの話は途中だったが、貴美子さんの勢いに押されてしまった。

|「喫茶部のコーヒーが美味しいんよ。あんたも一緒に飲も」と誘ってくれた貴美子さん。レジを打っていた中植さんに、私のコーヒー代200円も一緒に払ってくれた。

|「能勢にはね、『能勢の三白三黒(さんぱくさんぐろ)』言うて、昔から有名な地場産物があったんよ。三白は米と寒天と酒で、三黒は炭と黒牛、それに黒豆、いや椎茸かな。判らん、間違ごうとったらいかんから、生き字引呼ぼ」

突然呼び出された生き字引は、中垣内文代(なかがいち|ふみよ)さん(65)だ。

|「ほんとに田舎って楽しいですよ。木がそこにあんのやもん。花もあるしね。それでトンボを作んのやねん、タダで。能勢町はいいとこ。大阪と京都と兵庫へ行こうと思ったら、すぐ行ける。自分で運転できるから、今はいいけど。運転でけんようになったら不便。切実な問題じゃないかと、いつも思ってる」

トンボを作る話からドングリで人形を作る方法へ、さらに1か月遅れのひな祭りで作る菱餅に話題が展開していった。文代さんが登場しても、「三白三黒」の疑問は残ったが、活き活きとした表情から毎日の生活を楽しむ様子が伝わってくる。

|「ああっ、もうこんな時間や。お昼の支度せないかん。夫が怒っとるやろ、鉄砲玉や言うて」

文代さんは、来た時と同じように慌ただしく喫茶部を飛び出して帰った。貴美子さんと文代さんの話を聞いている間にも、引っ切りなしにコーヒーを飲む客が訪れた。接客をしていた上森順子(うえもり|じゅんこ)さん(64)が、「(相手の)家に行けば気兼ねするけど、喫茶部で会うかと言えば、1杯200円のコーヒーで気兼ねせんで会えるからええわ」と、喫茶部の役割を解説する。

事務机の前で、女性たちが3人何やら相談している。そっと後ろから覗き込むと、小林邦子(こばやし|くにこ)さん(68)が草餅を一つ、私に差し出してくれた。

|「どうやったら皆さんに来てもらえるのか、知恵出して色々作っておりますのや。この餅は『砂糖屋の角を走っとる』やろ。砂糖が足らない。もうちょっと甘い方がええなあ言う時にね、そう言うんやね」

3月末までは、露地野菜の出荷が少ないため午後1時閉店となる。その影響もあるのか、出荷する農家、買い物に来た近所の婦人、喫茶部で話し込む人など、次々に客がやって来る。

中植さんは、「年寄りの集まり場になっとる。今日は忙しい」と嬉しそうだ。「よっといで田尻」には、農作物だけでなく塩、砂糖、洗剤、ボールペン、消しゴム、のし袋、野菜の種、スナック菓子、ペットボトル飲料など、日常生活で急に必要になりそうな品物が並んでいる。スナック菓子の棚には「全部100円」と、サインペンで書いた紙が貼ってある。

農産物以外の販売は、「田尻農産」の上部団体に当たる「田尻おお杉の会」が担当。「田尻おお杉の会」は「田尻農産」より4か月早く、平成18(2006)年10月に非農家を含む地域住民の多くが参加して発足し、地域の活性化を目的としている。中でも簡易郵便局の開設を支援したことは特筆に値する。

さて、「三白三黒」について後に資料で調べてみると、三白は米と寒天、高野豆腐。三黒は栗と炭、それに牛とあった。しかし、戦後、我が国が工業化への道を歩み高度経済成長を遂げ、全国的に都市化が進む過程で、次第とそれらの地場産物は衰退してしまったようだ。しかし、大粒で甘い「銀寄 能勢ぐり」とクヌギを使い火着き、火持ちが良く茶道で重宝される「能勢菊炭」は、現在も能勢町が誇る地場産物として存在感を示している。

田尻地区の真ん中を北東から南西に向かって流れる田尻川は、川幅を広げる工事の最中だった。「この川は、大雨のたびに氾濫するんですよ」と、工事をしていた作業員が言う。堤防横の田んぼに人影がある。

川勝秋子(かわかつ|あきこ)さん(80)が、畦の近くの草を鍬で削ぎ取っていた。

|「元気ちゅうことないけど、しょうことなくせなあかんから。じっとテレビ見とったら楽やけど……。腰が痛いわ。自分がやれるだけやって、でけんようになったら止めたらええのやから。(遠くの県道を)通りよる車を見て、世間を楽しみよるんよ」

秋子さんは、畦近くの草を鍬で土ごと少し削り取り、鍬の横腹でトントンと叩き、根に付いた土を崩し草だけを取り除いている。田んぼの中は、勤めが休みの日にトラクターで息子がすき込んでくれるが、田んぼの端まではトラクターが近寄れないのだと言う。

|「ここに住んどったら、しょうことなしにせなあかんから」と、秋子さんが再び言う。

|「鍬一本で草取りするのは、昔から変わってないわな。嫁に来て50年は過ぎたわ。お米は安いし、肥料は高いし、お米の収入だけで生活していくのはでけせんわな。生活が欧米化してきたら、外で働かな生活でけしませんのや。食べもんが違いますやん。着てるもんかて、汚れたら捨てて、継ぎ接ぎなんてしやせんもん」

腰をくの字に曲げて草を取っている秋子さんは、時折、鍬の柄を支えに腰を伸ばし、遠くを走る車をじっと眺めている。

秋子さんと別れて、東藤木集落の坂道を歩いていると、防獣ネットを修理している男性に出会った。

|「ここらは鹿の通り道になっておりますのや。鹿は美味しい奴を食べはんのや。シシは稲が実ったら来やはんのや。今は山の奥に寝てはりますけどな。大変でっせ。鹿の通り道を案内しましょか」

豊中市内にある幼稚園の通園バスの運転手をしている川勝一弘(かわかつ|かずひろ)さん(81)は、自宅近くの豊中市幼稚園連合が運営している野外活動センターの整備をボランティアでしているところだった。一弘さんの案内で、野外活動センターの裏山へ行くと、山の斜面に蹄の跡が無数に付いた路が出来ている。

|「鹿は、ここを通って来やはりますのや」

一弘さんは、得意顔ともとれる表情をしているが、作物のない今の季節でもこの蹄の数だ。夏野菜ができる季節になった時、その苦労は想像できない。一弘さんの栗畑の角にお地蔵さんが6体、赤い前掛けをして祀られていた。

|「地域の年寄りの人が、年に一回、前掛けを替えてくれますのや。上の段は、愛宕さん言うて火の神様や。消防団がな、年一回、新しいお札を受けに嵐山奥の愛宕さんに行ってくれますのや。それで、地域の皆に配ってくれますのや。8月24日にお祭りしますんで、愛宕日いうてね。東藤木地区は12軒ありますから、皆が手肴(てざかな)持って愛宕さんの前に集まって、地域でお酒は買わはんのや。今は、もう変わってしまいました。昔とえらい違いや。今は、集会所で焼き肉やさかい、自治会で買(こ)うてますけどね。勤めが多うなったら、休みは取られしません。当たりの日に近い土日になっております」

一弘さんの口調から、地域の1人ひとりが太く結びついていた昔の暮らしぶりを懐かしんでいるのが伝わってくる。一弘さんがやむを得ないと思いながらも、若い時代の暮らし方を懐かしむのは、「今は、もう変わってしまいました」のひと言では割り切れない気持ちがあるからだろう。

平成28(2016)年3月20日は、能勢町田尻地区にとって大きな節目の日となった。町内5校の小学校と2校の中学校が、小中学校各1校に統合されるのに伴い、140年の歴史を積み重ねてきた能勢町立田尻小学校も閉校されたのだ。

閉校式が始まる午前8時30分前、式場となる小学校体育館に能勢小学校の児童35人の他、能勢町長や学校長、教職員や町会議員、町教育委員、田尻地区の住民や地区の役員、国会議員を含む多くの人びとが集まり挨拶を交わしている。

歴代同窓会会長の小林繁(こばやし|しげる)さん(73)が、複雑な胸の内を話してくれた。

|「やっぱり寂しいですな。核が無くなってしまいますので、地域がどないなってしまいますのか心配ですな。子どもらは、大勢の中で学ばせてやりたいと思いますので、難しいとこですわ」

厳かな雰囲気の中で行われた閉校式式典で、福井歩(ふくい|あゆみ)校長(60)は、「地域が育て、こんどは育てる側に立つ、そのような関係が連綿と続いてきた田尻小学校の歴史がありました。140年の確かな歴史を閉じることを宣言し、閉校のご挨拶と致します」と挨拶。

この後、児童代表の言葉、校旗返納、校歌斉唱、閉式の辞と続き、公式の式典が厳かな雰囲気の中で終了した。

第二部は、田尻地区の住民で組織された閉校記念事業実行委員会が主催する「思い出の会・激励の会」だ。

ステージに上がった34代校長の板谷嘉和(いたや|よしかず)さん(88)の言葉が、児童や地域を愛する人の切実な願いとして胸に刺さった。

|「いまさら言うたらいかんけど、全校35人も児童がおるのに、何で合併して他所へ行かんならんのやろ、と思うとりますのや」

|「児童の言葉と歌」では、キロロの「未来へ」を児童全員が透き通る声を精一杯出して歌った。

  ほら 足元を見てごらん

  これがあなたの歩む道

  ほら 前を見てごらん

  あれがあなたの未来

  ・・・・・・・

  子どもたちの透き通った声が胸の奥底に届く。たまたま、その場に居合わせていただけの私にも、子どもたちの一所懸命な気持ちが伝わってきて、胸が熱くなる。

公式行事とは異なり、和気あいあいとした雰囲気の中で進められた「思い出の会・激励の会」は、いよいよ最期の校歌斉唱の時を迎えた。会場に集った誰もが心を込めて、折々に歌った田尻小学校校歌。慣れない背広を着込んだ初老の男たちが、前を見据えて胸を張り、大きな口を開けて誇らかに校歌を歌っている。

  竜王山を まなかいに

  きよらな朝 さめる朝

  心のいずみ 鳴りひびき

  ・・・・・・・

  われらは若木 田尻校

と、閉校に対する複雑な心境を話してくれた小林繁さんが急にうつむき、顔が歪んだ。涙を堪えている。これが能勢町立田尻小学校校歌斉唱の最期なのだ。

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