2015年(平成27年) 9月・初秋43号

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終戦は10歳ぐらいでした。自分が小さい時は、大阪に家族全部で住んでいたんです。終戦後に沖縄へ帰ってきました。当初は、石川市(現・うるま市)に居りまして、父が読谷に通いながら、生活の基盤となる畑やお家の準備をして、家族全員でここに来たんです。

当時の読谷村は、ほとんど軍用地でしたよ。そのため読谷の方々は、石川とか金武町辺りに居ましたね。この130坪ほどの屋敷に、2世帯3世帯が茅葺きのお家に住んでて、戦後、軍用地と軍用地でない所がだんだん区別されたもんですから、皆それぞれ、伊良皆(いらみな)という所や都屋(とや)の集落に帰ったんですね。

石川から読谷に来て、中学の3年間を過ごし、中学を卒業したら高校も行かずに、米軍のハウスボーイ。ハウスボーイというと、兵隊さんの洗濯をしたり靴を磨いたり、家の掃除もして、自分で生活を2年ぐらいやりましたね。自分たちの時代はですね、クラスに男が20名ぐらい居ても3、4名しか高校へ行かないんですよ。全部、もう就職。お金もないし、又、それだけの学力もなかったもんですから、自然、もう金儲けに。

ここは、旧読谷飛行場。自分たちがハウスボーイをしていたのは、その空白の南側辺りですね。兵舎があったんですわ。ここは戦前、日本軍が飛行場を作ったんですよ。自分たちより5歳上の方々は、皆、石を運んだりね、駆り出されて飛行場作り。戦後、飛行場が開放されて米軍のパラシュート降下訓練場になりました。ここは、個人の畑だったんですけども、日本軍が飛行場を作るということで、正式な売買じゃなくて、戦争の非常時に使うということで手放したんですね。強制収用ですわ。現金を取った人もおるし、貰ってない人もいたそうです。戦後、飛行場が開放されて、米軍のパラシュート降下訓練場になりました。

ハウスボーイの後は、色々ありました。これは、私が作った自分史なんですがね。米軍のゴルフ場で働いて、その後、農協の製糖工場で働いたんですわ。2年半か3年。そして、公民館の用務員として1年間働いて、共同売店がありましたから、そこで9年。その時に、区の書記兼会計に選挙で当たったもんですから、売店を辞めて公民館で書記兼会計として9年間働きました。

その後も区長が当たるから続けてやりなさいということで、2か年区長をやりまして、それから村会議員選挙があって、その時に、みんなの協力で当選したもんだから、村会議員を4期してですね。

日本が戦争に勝っていたら、向こう(大阪)にずっと居たかも知れません。私の父は3男で、どうせもう土地を継ぐことはないと、大阪にずっと住むつもりで疎開して行ったんでしょうが、終戦後、沖縄は全滅になったという噂を聞いてですね。父は、叔父叔母たちも居るから心配で帰ろうと言って帰ってみたら、元気で居られたんですね。

これまでで一番苦しかったのはですね。自分が区の書記兼会計をしていた時の税金ですよ。お金の取り扱いが一番心配でした。1回も盗難にも合わなかったし良かったです。以前は、村県民税、固定資産税の2種類でしたね。今は6期に分けてますけどね、その当時は4期でした。そうすると、国民年金はまだ3か月に1回、だから徴収日が毎月ありましたよ。例えば、今月は村県民税でしたら、来月は固定資産税、翌月は国民年金の徴収。これを公民館で日曜日に徴収しよったんですよ。預かったのは550世帯分の税金、現金で何百万円もです。そうすると、その当時は夜間金庫もなかったですから、日曜はひと晩、自分が預かって月曜日になるとすぐ農協さんに持って行って預けてたんです。

ひと晩、眠れないですよ。抱いて寝ました。毎月1回、税金を抱いて眠むれない夜を過ごしました。

旧日本軍に接収され、戦後も米軍基地として使用されてきた旧飛行場は、1960(昭和35)年からパラシュート降下訓練場になっていました。黙認耕作地ということで、そこで畑を作ることはできたんですね。でも、何の補償もないですよ。ところが1965年にパラシュート演習で投下されたトレーラーに、小学4年生の女の子が押し潰されて亡くなったんです。その後からもう、どこに落ちるか分からんから反対しようということで、ヘリコプターが来たら村長も一緒に行って集まって、降下演習反対って叫んだり、ヘリコプターの飛んでくる下でね。それでも米兵は降りて来ますから、取り囲んでね。パラシュートを畳んで逃げようとするんですよ。4、5名降りて、旋回して、また降りてですからね。サトウキビ畑とかイモを作っている所に落ちてきてイモを踏みつぶしてね。

一日中やっているんじゃなくて、朝早く6時7時くらいから短時間。8時9時ぐらいまではやってましたね。で、役場の職員とかは職務に就く。議員とか年寄りとかね、地域の方々で集まって横断幕作って反対運動してました。

|(1972年に)本土復帰した後ですよ、私しゃ、コート買って着もしない。本土の人たちが着るコートがありますでしょ。腰にバンドして膝下まであるコート。それを、秋冬のコートを2枚買ったですが、1回も使わなかったですよ。あれが格好良いと思って、欲しくてね。

私が村会議員をしていた1995(平成7)年に、軍用地と村有地を等価交換して、読谷村の庁舎等用地の共同利用に日米合同委員会が合意しましてね。村の北東にあった村有地を日本国に渡して、面積は村有地が何十倍もあるんですけども等価交換ということで、村の中心部にあった旧飛行場を読谷村に返してもらったんですよ。これを元の地主一人ひとりに返すことは難しいから、この面積の3割は公共施設を造るとして、役場やセンターとかね、あとの7割は将来元の地主に返すということで、今、整備され土地改良事業が入ってますよ。そんな経緯で旧飛行場跡に1997(平成9)年に完成したのが、現在の読谷村役場庁舎なんです。

今の楽しみは、地域で一番大きなお祭り「観月会」が、旧暦の8月15日にガジュマルの大きな樹が3つ4つある広場でありますよ。棒術や獅子舞とかね。長者大主(ちょうじゃうす)というお爺さんとハーメというお婆さんが出てくる踊りが独特。今年は、10月3日(土)です。

読谷村で過ごした戦後70年間の人生を振り返ってみれば、大阪から帰ってきて沖縄で過ごして良かったと思いますよ。今はもう自分は歳だから公務はないんで、会長を務める「くとぶち(寿)会」で健康に気を付けて楽しく遊んでいますよ。

 

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