2015年(平成27年) 7月・夏42号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

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ニュースが台風11号は四国に上陸したと伝えている。小雨が降ったり止んだりの空模様で田畑に出ている人はいないと思っていたが、迎え火の夜に「迎え火が終わると、仏壇に供えてあるキュウリとナスのウマの頭を内向きに変えるんですよ」と、教えてくれた荒井節子(あらい せつこ)さん(84)の姿があった。

|「家ん中に入ってんの嫌いだから、こうやって畑に出て、花を作ったり野菜の種を蒔いたりね。今はね、カラスがトウモロコシを盗りに来てるから糸張ってんですよ。朝起きるのは4時40分ごろね、だって明るいから。人間一生のうち6分が辛いこと、4分が楽しいこと。楽しいことばっかりじゃないんだよ。自分で一生懸命やれば何とかなるんだからね。農家の休みは、毎月第二日曜日の農休日だけ。それは午後からだけど、観音堂に集まってツマミを取って、昼ご飯は食べないでね。でもそれは旦那衆だけ。元は『十五夜』と言ってね、女たちも集まったんですよ。決まった日じゃないのよ、毎月旧暦で十五夜のお昼だったね。太鼓があってさ、お念仏を唱えて。お墓に行って、敷物敷いて、そこで女たちは念仏を唱えたんですよ。お墓でやって家でやってね。いま考えると、おばあさんたちが怖かったね。お茶飲んで帰ってきたの。ひと月に1回ぐらいだから色々な話が聞けてね」

|「私、昭和29年1月19日に今の南房総市から嫁に来たんですよ。その頃は自家用車を持ってなくてね。お店屋さんの軽トラックを借りて、荷台に座布団を敷いて、そこに乗ってきたの。いま考えるとおかしいね。タンスやら布団、下駄箱、たらい。私ゃ金(かね)のたらいだったよ。それなどは頼まれた人が牛車に載せて引っ張って来てくれたよ。近所の奥さんたちが布団袋を開けて、布団何組持って来たかと調べるんだよ。蛇の目傘を持って来なくちゃいけなかったんですよ。それを親戚が買ってくれて良かったよ。それでも充分に買ってもらえなかったですよ。兄弟が他にもあったからね。下駄箱の中を開けて、どんな履き物(もん)を持って来たかって見るんだよね」

節子さんの話を聞いているうちに、本降りの雨になってきた。彼女に勧められるまま、ご自宅の軒先に置かれた長イスに腰掛けて話を聞き続けた。

|「畑が10アールあるんですよ。畑のノートと田んぼのノートが別々にあるんです。雑誌の「家の光」に付録として付いてくるんです。種を蒔く時期なんか、去年どうしたっけなと思う事もあるからね。そういう時に見てみるの。畑のノートには輪作になんないように、図面を書くわけじゃないけど、苗を植え付ける計画を立ててるんですよ。トマトの所には、キュウリもナスもピーマンも駄目。同じような花が咲く作物は駄目。5年間ぐらいは駄目ですね。トマトの後には、サツマイモ、タイワンイモ、里芋、タマネギ、ネギとかね。そういう風に場所を変えて植えるの。タイワンイモは長イモ式に擂(す)ってね、トロロになるんです。遠い畑には小豆を植えてあるんですよ。そこは電柵張ってないから、イノシシが出ても小豆は食べないからね。今日の仕事や、私のやった仕事を書くのは3年日記。今までは5年日記だったけど、私、80歳になってからは3年日記に。外孫が買ってくれるんです。それを1枚めくると、3年前5年前に、この日、何をしたのか分かるんです。朝は、7時前から飲み物と機械(草刈り機)の油しょって(背負って)畑に出てるからね。高血圧でね、いつ倒れるか分からないからね。生きられるだけ一生懸命やっていこうかなって、毎日やってるんです」

台風の影響を受けた雨雲が深く垂れ込めている。雨は相変わらず強く降ったり止んだりしている。節子さんには、休息の雨になっているのかも知れない。

畑集落の真ん中にある三差路に石井商店はある。店の外に清涼飲料水の自販機が2台。店内には、酒類の他にスナック菓子や菓子パン、日用雑貨が並べてある。店の出入り口右側にデコラ板のテーブルとイスが5、6脚。

店主の石井通也(いしい みちや)さん(80)は、高校を卒業してからすぐに石井商店を継いだ。「祖父さんから始まって、親父がやって、3代目だな。店が始まって70年かな」。店を覗くと、東善寺の集まりで顔見知りになっていた鈴木雅夫(すずき まさお)さん(82)と通也さんが、何やら話し込んでいるところだった。(以下、敬称略)

話の落ちは元に戻ってしまったが、地域の人びとが交わる営みこそが労働の厳しささえも忘れさせる楽しい思い出となっていたことは、集落の未来を考える際の示唆に富む二人の会話だった。

昆虫そのものを一度も見ることはなかった

テッポウユリの球根を箱詰めする作業を終えて、疲れながらもホッとした表情を見せる鈴木通夫さん

台風11号は日本海へ抜けたとニュースが伝える頃になると、厚い雲の切れ間から少しだけ青空がのぞくようになった。そんな天候の変化に合わせて、それまで人影のなかった畑に働く人の姿が現れる。畑に出る機会を待ちかねていたのだ。

集落下の道沿いに真っ白のテッポウユリを供えた小さな墓地がある。鈴木通夫(すずき みちお)さん(85)宅の墓地だ。家の前を通りかかると、通夫さんと息子の利雄(としお)さん(59)の2人が、テッポウユリの球根を冷蔵するために、作業小屋で箱詰め作業に励んでいた。

|「沖永良部の球根を商社を通じて買ってますからね。箱詰めしたテッポウユリの球根を冷蔵庫で12℃くらいにしてやるんですよ。春が来たと勘違いさせるんです。40日くらいで芽と根が出たら植えてやるんです。『日の本』っていう品種なんですよ。箱詰めするには、ほんとは、おが屑が一番いいんですけど、今は牛屋さんが使うようになって手に入らないんで、オランダからピートモスというのを取り寄せてるんですよ。今は、花も農薬を使うのはうるさいですよ。結局消毒しないと、虫の食わないきれいな花はできないですよ。テッポウユリはほとんど葬儀用に使うんですよ。あとは正月用です。正月に向けて植えるんですけどね。天候に左右されますからね。やっぱり早くなったり遅くなったりね。市場ではオリエンタル系をやってくれと言われるんだけど、ここは産地じゃないから。産地化していないと2流3流ですから。ここは、江見テッポウユリの一大産地だったですよ。50人くらい生産者が居て、7000箱ほど沖永良部から球根が来てたんですよ。始めてからもう40年以上になるじゃないかな。いやーっ、一時期は面白かったですよ。今テッポウユリをやっているのは、10人に欠けてきたですかね。島から球根が来て、1球70円くらいは付いちゃいますよ。それで100円くらいで売れても経費出ないですよ。いやーっ、時代遅れになってきたですね。12月の10日頃から出荷できるといいんだけどな」

通夫さんが球根の箱詰め作業の手を休め、遠くを見るような眼差しをした。父親が乳牛を飼っていて村に活気のあった時代を思い出したようだ。

|「20歳くらいの時に親父を亡くしたからね。5人兄弟の一番しっぽこ(末っ子)が跡取ったですよ。親父は65歳で亡くなったですから。テッポウユリの前は乳牛でしたね。ここら辺はどこでも2、3頭は飼ってましたね。うちだって最高賞を取った品評会で90何点というホルスタインを飼ってましたよ。5頭ぐらい飼ってたんじゃないかな。馬喰(ばくろう)さんが沢山いましてね。ジョハナとかチールズマーとかね、名の通った系統があるんですよ。そういう高等牛を持ってると他府県から買いに来ましたよ。親父の代ですけどね」

テッポウユリの球根が入った木箱を、納屋を改造した冷蔵庫に運んでいた利雄さんは、仕事を終えて一足先に自宅に帰っていった。夕暮れ迫る作業小屋で、木箱に腰を下ろしたままの通夫さんがひとり、遠くを見つめ、穏やかな表情で座り続けている。

通也 「昔は、ここの店に5人も10人も集まって、飲みに来てたんですよ。結局、ニュースがここに集まってくるんです。情報の交差点。それが無くなれば、都会と同じ。隣は何をする人ぞという状態ですよ。地域での店の役割は分かってるよ。でも食べていけなきゃ、もうすぐ終わりですよ」

雅夫 「このまま部落がなくなっちゃうんじゃないかという話はよく出ますね。60何軒のうち若けえ者は半分も居ないもんな。小学生が4人、中学生は5人。学校に通ってる子どもが居るのは4、5軒しかないんですよ。苗植えて穫り入れするには、5種類の機械が必要なんですよ。その機械代を払うだけでも百姓はできねえな。私も、去年までは稲作ったんですよ。今年はもう止めました。でも、周りに他所の田んぼがあるんで、(迷惑を掛けないよう)草だけは刈らなきゃならない。それも稲作ってる時は土手だけ刈れば良かったけど、今年は田んぼの中まで刈らなきゃなんねえ。まだ3か月しか経ってないけど、それでも3回は刈らなきゃなんねえ。何のために草刈るのかと思いますよ。周りの人が稲を止めたら、あっという間に山だよ」

通也 「一銭の収入にもなんないのに、油代払ってやんなきゃなんねえ」

雅夫 「百姓止めたから、もう終わりですよ。明るい話はないね。夜になれば、真っ暗だからね」

明るい展望のない話をしていると、店の奥から通也さんの奥さんが話に割り込んできた。「畑の人は人気(じんき)が良いからね。心根のことよ」。このひと言で、二人の会話の流れが変わった。

雅夫 「子どもの頃は面白かったよな。12月の天神講と3月の試験祝い。子どもたちだけがお米持って行って、昼夜ご飯を一緒に食べて遊ぶのよ。何をするという訳ではないけど、陣取りやったり、田んぼに氷が張ったら板持って行ったかな。子ども天国の日。子どもたちの縦の付き合いができたね。同級生だけじゃないんだからね」

通也 「当時は子どもも多かったからね。少なくたって一家に4、5人は居たっぺよ。多いとこは7、8人は居たよ。大人も集まってたよな。回数からすれば月1回の農休日の方が多いかも知れないな。農休日は旦那方、おばあさんは念仏講、お嫁さんは子安講、それぞれ集まるわけだ。それに、昔は仲間仕事が多かったからね。昔の家はカヤ葺きでしょ。冬になるとカヤを刈って、向こうの山からしょって(背負って)降ろすんですよ。道普請はね、川から砂利を揚げて、背負子に木の箱を括り付けて運んだですよ。それから、仲間仕事は共有林があるんですよ。下刈りとか植林ね。仲間仕事は大変だったね。でも、終われば一杯だから。熊野神社の境内には芝居が来たね、戦後すぐに。素人芝居もやったね」

雅夫 「そういう人たちも皆、居ねえもん。いよいよ番が回ってきたよ」

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