2015年(平成27年)5月・初夏41号

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テレビが関東地方では今年初めての真夏日になったと伝えている。ここ東鷹栖北地区は相変わらずの肌寒さだ。550メートル間隔で碁盤の目のように走る農道を、当てもなくレンタカーで走るが、人影はない。22号の峠を越えたところで、畦の上を強風に逆らうように小型の機械を押して歩く男性の姿を見つけた。鈴木栄一(すずき えいいち)さん(75)が、クサトリキングという除草剤を撒いているところだ。

|「生かさず殺さずです。たくさん草のある所はゆっくり歩いて、少ない所はさっと歩く。根っこは生きたままで葉だけを枯らさないと畦畔が崩れてくるからね。水田は12町歩から作ってますね。この辺では元気だなと言われるけど、空元気出してやってるんです。自分は、朝4時に機械を動かそうと思っているから、田んぼに出て他に誰も居なかったら1日気持ち良いもんな。農家魂というのかな。張り合うわけじゃないけど、ライバル意識を持ってやらないとね。農家は誰も助けてくれませんから。作物育てる言うたら、子ども育てるより難しい。言葉言わんだけにね。やっぱり作物と話しするような気持ちでやらんとね。自分で4代目なんです。自分の代でほとんどやったんだから、自分の代で潰してもしょうがないと思うけど、寂しいもんだよね」

現在は、娘さんの住まいに近い市街地に新しい家を建て、そこから通っている。田んぼを引き継いでくれる新規就農者を受け入れるための準備として、それまで住んでいた田んぼ近くの家を3年前に空けたのだが、後継者はまだ見つからない。

言葉は通じないけど話はできる

|「農家は面白いですよ。言葉は通じないけど(作物と)話しはできる。(米の)食味は平均より上で、収量もそれなりに穫れる線を狙ってやってるけどね。肥料過多にしたらタンパク質が高くなって味落ちるから。だいたい夜8時ぐらいに眠って、朝3時に起きてあんま機掛けて4時前には田んぼに来てます。7時半ごろ朝の弁当持って来てもらうんです。今の時期だけですね。除草剤は、今撒いて押さえておきゃ、残ったとこだけ刈れば良いから。葉っぱだけ枯らして根っこは枯らさない。その濃度を自分で決めるんです。昔の農薬、パラチオン剤は何にでも効いたけど、今は、散布する時期が限られているし、人に優しく虫にも優しい。除草剤使わなかったら、他の作業が間に合わなくなるから。10日間はびっちり掛かるもん」

栄一さんは、畦に吹き付ける風が強く除草剤が飛び散ってしまうため、作業を途中で止めて、田んぼ近くの以前住んでいたという家に帰ると、横の畑で妻のハル子さん(74)がネギの植え付けをしていた。深く帽子を被りカッパを着て、ネギ苗を2本ずつ15センチほどの間隔で植えていく。栄一さんは家から水道ホースを引っ張ってきて、横の畝に植えてあるタマネギに水をかけ始めた。

|「お父さんは植えたことないんだよ」

ハル子さんは、植え付けを手伝おうとしない栄一さんに少々不満そうだ。

白樺や桑の葉っぱは美味しいですよ

鈴木栄一さんの曾祖父が1913(大正2)年に山形県太郎村(現・南陽市)から入植し、最初は、山林の原野に家を建てて周りの土地を耕して暮らしたそうだ。

|「山菜やキノコの食べ方ならあらゆるものを知ってるから。山菜でも花は毒を持ってるからね。カタクリや行者ニンニクの花は毒だから。広葉樹の若い葉っぱはほとんど食べられるね。白樺や桑の葉っぱは美味しいですよ。農業を止めたところの土地を買って、少しずつ平地の近くに出てきました。昭和33年にここの土地買ったんかな。4か所目。昭和58年に親父亡くなったから、その年に庭造ってね。自分らは出稼ぎして、そのお金で、機械買って土地買って、借金して苦労したけど、ようやく余裕が出てくると跡継ぎがなくてね」

栄一さんの話には、たびたび後継者が見つからないことが話題となる。現在の最大の悩みが後継者の居ないことなのだ。

まさか一緒になるとは思っていなかったですね

翌日も栄一さんは除草剤を撒いていた。この日はハル子さんも一緒だ。トラックに積んだ黄色いタンクの除草剤を、手押し車式の動力噴霧器に移し替えて斜面の広い畦に撒いていく。私は、もう少しゆっくり話を聞かせてほしいからとお願いして、昼食の時間に田んぼ近くの以前の家へ押しかけた。

|「2食作るのは大変だから、今日は自宅から炊飯器持って来て、簡単に済まそうと思ってたんだけど」と、ハル子さんは簡単に済ますつもりの昼食を写真に撮られることが意に沿わないようだ。

|「寒い時にはインスタントラーメン、今はお汁替わりにお茶」

こう言いながらハル子さんは、てきぱきと食卓になっているカウンターに昼食の皿を並べていく。

|「東鷹栖北地区は今68世帯。以前は200戸からあったんですよ。郵便局近くの10線沿いに在ったAコープが無くなったのが10年以上前になるわ」

2、30年前ごろから東鷹栖北地区でも離農が続き、50年前に比べると世帯数が3分の1になってしまっているのだ。集落に活気のあった時代の話を聞かせてもらっているうちに、栄一さんが以前暮らしていた場所へ案内してくれることになった。22号農道沿いにある栄一さんの田んぼの所から右に折れて、小高い丘の裾野に沿うように農道を奥へ入っていくと、わずか4、500メートル進んだ所の空き地に車を停めた。

|「ここは明徳神社といって、自分らの青春時代には9月1日に祭りがあってね。境内で余興をやって、常盤礼子だったかな、芝居を呼んでね。お盆には盆踊り。この地区だけでも青年団が7、80人居りましたからね。ハル子は学校の一級下で覚えてはおったけど、まさか一緒になるとは思っていなかったですね」

そこからさらに1キロほど進むと、小径が左に折れる小さな三差路になっていた。その小径の先に小川が流れ、小川を越えると小高い山に入っていく。

|「この山に8軒あったんです。橋のたもとに店があって、結構賑やかだったんですよ。簡易郵便局があってですね。山の中の自分の土地に家を建てて、その周りが畑になってるんで、北海道では家がバラバラに建ってるんです。うちが最後までここに居ったんですが、畑じゃ全然食べていかれんから、自分が中学の頃かな、親が土地を買い求め始めたのは。今住んでいる街の家が5軒目。全部自分の土地だからね。向こうに5町歩、ここの山に10町歩、今も山を持ってるんです。後継者が居ないからさ、年取ったら街の方が良いからって、娘が近くに来いって言うからね。でも、自分は根っからの百姓ですからね。やっぱり作物と生活せんかったら……。気がくしゃくしゃする時でも、山で山菜を採ってくるとすっきりするんですよね」

栄一さんとハル子さんの2人で、出稼ぎをして、「米選器の下のくず米を食べたのですよ」という時代を凌ぎ、築き上げてきた現在の大規模水稲専業農家なのだ。すでに街で暮らし始めてはいるが、後継者が見つからない無念さが言葉の端端から伝わってくる。以前の家に帰ると、栄一さんが倉庫を案内してくれた。42石、45石、50石のモミの乾燥器3基が並んで据えられ、6条刈りのコンバインなど大型農業機械がずらりと納まっている。

|「一時に仕上げんならんから、どうしても大型になってね。やっぱり農家やるんなら北海道。細かいところでコセコセしとられんからね」

ぼくの顔を撮ってんじゃないかと思うけど、

恥ずかしして顔向けられねえや

東鷹栖十線郵便局の十字路を22号から南西の方角へ進んで丘を上り19号まで行った時、それまで見慣れていた屋根付きの大型トラクターではなく、昔ながらの金属製の輪が回転するトラクターが10線農道を走ってくるのに出合った。エンジン音が大きくて話はできそうもないので、カメラを高く掲げて写真を撮っても構わないかと確認すると、頷いてくれた。

タオルで頬被りをした男性が運転するトラクターは、近くの4反ほどの田んぼに入って荒代掻きを始めたが、急に雲行きが怪しくなってきた。西からの風が強く、小雨が混じって吹きつけてくる。そんな中でも男性は、幅3メートルほどの代掻きロータリーを曳いて仕事を続けている。私がカッパを取りにレンタカーへ戻っている間にトラクターのエンジン音が止まった。この時は冷たい土砂降りの雨になっていたので、堪らず仕事を中断したようだ。雨を避けて逃げ込んだビニールハウスへ追いかけて行くと、沓村弘(くつむら ひろし)さん(72)がずぶ濡れになったまま寒さに震えていた。

|「いやーっ、ぼくら本業ではないからね。水稲は1町7反。離れにも田んぼはあるけど、地力えん麦という馬の餌を植えているから。ぼくの顔を撮ってんじゃないかと思うけど、恥ずかしして顔向けられねえや」

朴訥さを絵に描いたような沓村さんだ。

ビニールハウスでは、妻の澄子さん(68)が、ジュースの原料になるトマトを栽培していた。

|「規模ちっちゃくて、世間に笑われるような農家ですが、借金はしてないから気持ちは楽ですよ。でも、規模の小さい人は、やっぱり後継者が育たないということじゃないですか。同じ家に2世帯で一緒に住んでいる息子に『俺の選択肢に農家はない』と言われたのは、ちょっとショックでした。規模を大きくしとけば選択肢になったのかなと申し訳なかったですね。ここ1、2年ですね。『手伝おうか』って言ってくれるから、一緒に住んでいて良かったと思いますね」

昆虫そのものを一度も見ることはなかった

東鷹栖十線郵便局近くの水田で藁クズを掬い上げていた椛澤寿恵子(かばさわ すえこ)さん(51)も後継者は居ないと言っていた。

|「農協を通じて借りている田んぼも含めて11町歩ほど作ってます。掬い上げた藁クズは、畑の肥料にしたりして使うんですよ。うちの子どもはもう農業はしないんです。下の子は大学生で公認会計士を目指しているし、上の子は勤めているし、農業は不安定ですから」

どこかさばさばとした表情で、農業は自分たちの代限りと見切りを付けている様子が伝わってくる。

1962(昭和37)年に東鷹栖十線郵便局の十字路近くに出来たAコープの初代支店長として赴任してきた宮崎昭(みやざき あきら)さん(78)が、今は誰も住んでいない兄の家を管理するため畑で仕事をしていた。

|「東鷹栖町と鷹栖町を合わせて1200戸ぐらいあったんだよ。大雪農協でな、実際耕作している家が380戸ぐらいあった気がしたな。東鷹栖北地区にAコープの他に個人の店が2軒あったんだもん」

50年ほど前の東鷹栖北地区の賑やかさが伝わる話だ。この半世紀で、東鷹栖北地区に何が起こったのだろう。柏台神社境内に建っている「悠久豊土」の石碑の道営ほ場整備場の完成を祝う碑文をもう一度読んでみると、「名実ともに上川稲作の中核地帯として輝かしい未来に向けて発展することを確信するものである」と結ばれている。

良かれと進めた大規模専業農家への道は、村上光生さんや鈴木栄一さんの言葉に表れていたように農家の自負や誇りを育んだのは確かだ。しかし、私が今回出会った大規模農家も「規模がちっちゃくて、世間に笑われるような農家」も口を揃えて、「後継者がいない」というのは、何か原因があるとしか思えない。

鈴木栄一さんが「大作している人は、それだけの甲斐性がある人だから」と言っていたように、大規模農家は人並み以上に頑張ってきた。誰よりも早く、午前4時には田んぼに出て日暮れまで働いた成果なのだ。無念さが伝わる。切なさが込み上げてくる。

もう一点、今回の取材で気になったことがある。東鷹栖北地区を訪ねた最初の日、村上さんが荒代掻きをしている間、芽吹いたばかりの新芽や昆虫を撮影していた時、モンシロチョウらしき蝶を4頭見かけた。その時は蝶から遠かったため撮影できず次の機会を狙っていたのだが、その後、東鷹栖北地区に滞在していた6日間で、蝶だけでなく昆虫そのものを一度も見ることはなかった。田植え前に一斉に撒いている除草剤の影響でなければ良いのだがと思う。「人にも優しいし虫にも優しい除草剤」と聞いたが、本当ならば嬉しいことだ。この数日間、東鷹栖北地区の寒さは例年になく厳しかった。その影響なのかも知れない。

気になって40年ほど前に読んで衝撃を受けたレイチェル・カーソン著「沈黙の春」を引っ張り出してみた。この本の警告は、そのまま現代の日本にも当てはまることに改めて驚いた。私たちは、自然界への影響を顧みようとしないで、人間の便利と利益のためだけに今も歴史を歩いていることに気付かされる。

 

東鷹栖北地区を離れる日の夕方、久し振りに日射しが射し込んで棚田の風景が輝いた。棚田の畦を歩く2人の美しいシルエットが見えた。影絵の一場面を見ているようだ。男性は背中に顆粒状の除草剤を入れるタンクを背負っていた。相馬国男(そうま くにお)さん(71)と礼子さん(70)が、田植え前の水田に稲以外の雑草を生やさないために除草剤を撒いていた。もちろん、相馬さん夫妻は、水稲農家としてこの時季に当然しなければならない農作業をしているだけなのだ。

 これまでに発行された季刊新聞「リトルへブン」のWeb版を読むことができます。

 

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