読者からのお便り
リトルヘブン余録

 揃いの衣装に身を包み、白い鉢巻きを締めた笛7人と太鼓3人。鉦の5人は、編み笠を被って、たすき掛けだ。鬼神面を付けた大太鼓が、大きな振りで舞うように太鼓を打つ。笛の音が流れ、太鼓と鉦が調子を合わせる。鉦は、やや斜めから滑らせるように打つことで、音色に柔らかさが出るよう工夫されている。木場郷に伝わる民俗芸能、木場浮立(こばふりゅう)は無形文化財にも指定され文字通り風流な雰囲気を漂わす。
 木場浮立の継承に尽力されている松尾忠二(ただじ)さん(84)に伺うと、大正4(1915)年に虚空蔵山東側の佐賀県藤津郡不動山村から伝授してもらったそうだ。木場浮立の笛を担当する長尾俊明さんは、昭和42(1967)年9月22日に雨乞いをするため、浮立の道具を持って虚空蔵山の頂上へ大勢で登ったことを鮮明に覚えている。当時、彼はまだ18、9歳だったので、道具の運搬役として駆り出されたのだ。「一週間ほど泊まっとったら、雨乞いで浮立のしよらすけんがと、県境町境の嬉野や彼杵の方から差し入れせんばんちゅうことで、お酒とかご飯とか饅頭とかぼたもちとかね、相当なごちそうですよ。帰っても田ん中に水はなしね。昼間は木陰で昼寝たい。ま、そん時に浮立の鉦の打ち方を習うという楽しみもあったね。最後の一週間目に雨がパラッと降ったけん。やっぱ雨乞いちゅうとは、効果のあるけんしよっとやろね」。
 これほど地元に親しまれ伝承されてきた木場浮立だが、実は20年間以上も披露されなかった時期があったという。佐世保市の水源を確保するため、昭和47(1972)年に発表された石木ダム建設計画を巡り、木場郷は賛成か反対かで意見が割れ、近所に住む親戚同士でも行き来がなくなったという。現時点でも、石木ダム建設を推進しようとする長崎県及び佐世保市と、建設に反対する住民との話し合いは解決に至らず、今年9月に県が土地収用の強制執行を決断するかどうかの瀬戸際を迎えている。
 「平成12(2000)年じゃったか、このままの木場郷じゃいかんからと、意見が対立していた相手から融和の申し出があってですね。たったひと晩で木場浮立が復活することになったとです。そん時のお酒の旨かこと。あんな美味しい酒は初めて飲んだ。でもですね、わだかまりが無くなったかと言えば、そうはいかん。公共事業は自然破壊だけでなく、人間の心も壊すとです。人間社会は一遍破壊されたら、やっぱ3代は掛かるでしょう。ダムが出来ても出来んでも、しこりが残るとです」
 松尾さんは、「ダムのダの字も言われん」と言いながら、苦渋の胸の内を明かしてくれた。
 石木ダム建設計画が発表された昭和47年は、当時の田中角栄首相が日本列島改造論を打ち出した年であった。それから42年間。ダムに賛成でも反対でも、それまで仲睦まじく同じ故郷で暮らしてきた木場郷の住民に、親戚であっても口もきかなくなるような心の傷を負わせた行政に、憤りを覚えた。自然と共に暮らす人々の経済では計れない豊かさを伝え、守って行きたいと願う私には、42年間の長きに亘り、故郷の自然を守るために反対を続けている住民が居ることを知りながら、代替策さえ提示出来なかったのは、行政の怠慢以外の何物でもないと思う。

写真と文 芥川 仁