読者からのお便り

 朝から小雨が降る肌寒い日だった。午後になると、今回の同朋会(どうぼうかい)の当番に当たった山川チヨ子さん(76)宅に、福浄寺の檀家の方々が集まってきた。先に来ている馴染みの顔に挨拶をすると、それぞれに仏壇を拝み住職の到着を待っている。襖を取り払った広い座敷に座布団が置かれ、住職が使う黒板に近い席には男性が陣取る。少し間を置いて女性が、数珠と手帳を膝元に置いて座ってた。総勢24、5人。後ろには正座できない女性のためにイス席が設けてある。
 定刻になり、深草昭壽住職が姿を見せ、出されたお茶を一服すると、すぐ正信偈と念仏和讃を唱和し同朋会が始まった。

 木場講というのは、いつ頃できたか知っとらすとですか。明治のね、30年頃じゃないですか。以信会(※注)が始まった頃じゃないですか。昔は、たぶん親鸞聖人の御影像を檀家持ち回りでお勤めしてあったんだろうと思いますけど、そういう意味では100年以上の歴史を持っとるもんですから、大したもんでございます。
 さて今日は、天親菩薩論註解(てんじんぼさろんちゅうげ)報土因果顕誓願(ほうどいんがけんせいがん)という所をお話ししますけども、親鸞聖人というお方は、言葉を非常に厳密に使われる方で、一つの言葉でも色々違った表現をしようとされます。浄土という言葉でも、安養(あんにょう)とか安楽(あんらく)とか浄刹(じょうせつ)とか光明土(こうみょうど)とか、色んな言葉で浄土というものを語りますよね。言葉を非常に厳密に大事に使われる方ですよ。その親鸞聖人がですね、この正信偈では特にそうなんですが、7文字で書けなければならない。一行が7文字ですから。言葉を選ばなければならん訳なんですよ。その中で、この天親菩薩論註解はですね、天親菩薩という同じ言葉が出てくる訳ですよね。しかも、すぐ近くに。しかも、天親菩薩は人の名前でしょ。天親菩薩って方が、浄土論という論を作ってお説き下さったというのが、天親菩薩造論説(てんじんぼさぞうろんせ)でした。
 天親菩薩という方は、インドの方です。インドといってもパキスタンです。パキスタンとアフガニスタンの国境沿いにペシャワルという町があります。ペシャワルで生まれたと言われておりますけれども、今から1700年前ですね。
 天親菩薩論註解には、論註解(ろんちゅうげ)という言葉が出て来ます。これはどういうことかと言いますと、曇鸞(どんらん)という方は浄土論註(じょうどろんちゅう)という本を作られたんです。つまり、天親菩薩がお書きになった浄土論という書物を、分かりやすく解釈して下さった方が曇鸞大師で、その書物を浄土論註という訳ですよ。
 分かりますね、ここはね。もう私も、正信偈でここは6回しゃべっていますから。6回と言っても一回に付き3、4年掛かりますからね。20年近くしゃべりよっとですよ。前の住職から言えば、もう40年50年昔からしゃべりよる訳ですよ。この前、葬式に行ったとですね。葬式の時の正信偈というのは棒読みでしょ。メリハリがなかでしょうが。それで天親菩薩造論説と言わんならんとこがですね、天親菩薩論註解と言うたですが。早う終わったんです。ありゃ、ほんと間違うんですよ。逆に、論註解と言わんならんとこを造論説と言ってしまえば、ずーっと終わらんとですよ。また、元に戻る訳ですよ。
 親鸞聖人は、正信偈の中で大事に言葉を選んで書いておられるのに、何で同じような言葉を言われたかちゅうことです。それは、天親菩薩がお書きになった浄土論というお書物が非常に大事なお書物だということです。浄土論というのは、小さな小さな短いお書物です。大事な事を教えてあるんだけれども、曇鸞大師が、それを注釈して下さらなかったならば、なかなか天親菩薩のお心が分からん訳です。浄土論と浄土論註という本は、切り離せないものなんですね。
 私たちの世界というのは、好き嫌いとか、良い悪いとか、すぐ、そうやって人を選ぶでしょ。あん人は好きばってんかね、こん人は好かんちゃねえ、とか。人間に好き嫌いは必ずあると思います。私もありますもん。嫌いな人を無理矢理好きになれって言われたって、それは無理でしょう。嫌いな人を好きになれって言いよんじゃないと。無理して好きにならんちゃ良かばってんか、その人の存在だけは認めなさいということですよ。
 浄土には、好醜(こうしゅう)、好きとか嫌いとか、美しいとか醜いとかいう世界がない。ということは、一人一人が金色ですから、存在としてちゃんとあるのだと。これは、どこから来るかということですね。
 お釈迦様が生まれた時に、天と地ば指さして、天上天下唯我独尊って言うたでしょう。無上尊というのです。これ誤解し易いんですよね。天にも地にも、全世界で我だけが独り偉いんだって、捉えがちなんです。そういう意味じゃないんですよね。偉いんじゃない、尊しと言ってるでしょ。我という意味は、私という意味じゃないんです。みんなに呼びかけた我なんです。だから、一人一人なんです。この世の中、全ての一人一人が尊いのだと言ってる訳ですよ。無上尊というんですよ。無上尊というのは、一番てっぺんと思うかも知れませんが、違うんです。上で無いと書いてあるんです。無上無下です。上が無いということは下も無い。そういう尊さを一人一人が持っとるちゅう訳ですよ。そういう人間になって欲しいというのが、お釈迦様の四十八願。それが、第3番目第4番目の願に現れとる訳ですね。ここに本当の人間の平等がある訳ですよ。

 「寄って話し合うとが、面白かで楽しいとです。そやけん寄るとですよ。以前は、酒なんて飲みよったけど、今はもう車やから出しませんと決めとっと。ご院家さん(住職)が、五島に行ってきたと聞いとったけん、様子を聞いてみよかと思いよったけど、長うなるけん聞かんかった。私ゃ五島に行ったことなかけん、知らんけん」。上野昌美さんが話すように、同朋会は親鸞聖人の教えを学ぶばかりでなく、地域の人々が歓談し、情報交換の場としても機能しているようだ。

(※注)福浄時以信会:明治27(1894)年に結成された聞法の会