読者からのお便り
イワシの柔らかさと 唐辛子の辛さが絶妙

 40世帯で使うには、大きく立派な木場郷公民館だ。上木場でも一番上の集落重(かさね)の山口光江さんと吉川廣子さん、その下手の古田(ふった)集落の山口博子さんの3人は、ピカピカの調理場に入るなり、普段からそれぞれの持ち場があるように、シシ汁の準備を始めた。
 光江さんが、片手に余る大きな里芋の皮をむき始める。「この芋の品種では、こう大きいとが本当です。木場郷の里芋は粘りがあって美味しかとです」。博子さんはゴボウをササがきに。廣子さんは大根の皮をむき始める。
 「小さか鍋のあるね」と、光江さんが博子さんに聞く。次の瞬間には、少し水が入った小さめの鍋がガス台の上に乗る。コンニャクを2枚、そのまま鍋に入れて強火にかけた。「ガラッとしたら、もう良かとです。長くは炊かんで」。
 太ネギ3本、小ネギ13本、大根1本、里芋3個、ニンジン2本、タマネギ1個、ゴボウ7本、サツマイモ2個、コンニャク2枚、厚揚げ豆腐3枚、それに吉川さんが作った生シイタケが5枚と、山中俊満さんがワナで捕獲したシシ肉1キログラムが、材料だ。いや、もう一つ、味のポイントになる根ショウガを、手のひらほどの大きさで一個。
 材料の野菜は全て、みるみるうちにサイコロ切りになって、色とりどりのザルの中に収まった。冷凍してあったシシ肉は、自然解凍し、筋を取り除くようにして一口大に切っておく。湯がいたコンニャクは、野菜と同じくらいの大きさに、手でちぎっておくと味が浸みやすい。生シイタケは、細かく切る前に水に浸して出汁を取っておくと良い。
 いよいよ大きな鍋を火にかけて、油を垂らし全体に広げると、すぐにシシ肉を入れ、焦げ付かないように吉川さんが手際良く木のしゃもじで炒め始めた。その横で、博子さんが根ショウガを摺り下ろしている。
 肉の色が変わってきたら、摺り下ろした根ショウガをたっぷり加え、更に炒めながら火の通りにくい野菜から次々と鍋に入れていく。里芋、サツマイモ、コンニャクが入った。ここからは、やや強火だ。
 吉川さん宅の前には、虚空蔵山からの伏流水が湧き出す水汲み場があり、ポリタンクを車に積んで遠くから来るほど美味しい水として知られている。今回のシシ汁も、もちろんこの虚空蔵山の伏流水を使う。5リットルを準備していたが、材料が多すぎて水が足らなくなったようだ。博子さんが、ポリタンクを持って水汲み場へ飛び出した。すでに、厚揚げ豆腐を残すだけで、材料は全て鍋の中だ。
 光江さんは、空いたザルやボールを次々と洗っては、片付けている。博子さんが追加の水を持って来たので、さらに強火にして、厚揚げも加えて味付けに入る。砂糖を玉しゃくしで1杯、塩は大さじ1杯、日本酒を玉しゃくしに1杯、ミリンは玉しゃくしに2杯、ダシの素を2袋。アクを取りながら、火の通り具合を確かめる。里芋が柔らかくなっているかどうかが、目安だ。
 大鍋いっぱいのシシ汁ができそうだ。「30人分はあるね」と吉川さん。シシ汁は、棚田祭りや町とJAが主催する農業祭などがある時に、木場郷名物として作るので、少しだけというのは慣れていないのだ。いよいよ最後に味噌を入れて仕上げである。
 ここで初めて、3人の協議が始まった。公民館の冷蔵庫に入っていた味噌が500グラム。「これでは足らないね」と、博子さん。博子さんが持って来た自家製味噌が約500グラム。合わせて1キログラム弱を使い、後は、味見しながらと、3人の意見が落ち着いた。味噌漉しを鍋に入れて、スリコギでゆっくりと味噌を溶かしていく。味噌の香りが調理場全体に広がった。
 小皿に汁を取って、3人で味を見る。「味噌をま少しやね。ショウガは下ろしたのを全部入れよか。ダシの素もま1袋。味噌は完璧に1キロやね」。吉川さんが味見の先導をする。
 さて、2度目の味見だ。「あ、美味しかね」と博子さんが言うと、「よかろ」と、光江さんが納得の声を出した。「火止めるよ」と、吉川さん。
 大鍋を火に掛けてから、45分間。30人分のシシ汁が完成だ。木場郷でも、シシ汁は一般的な料理ではない。「シシ肉を買ってまではね。肉があればシシ汁を作るけど、肉がね、なかなか無いけんね。個人では持っておらすとやろけど」。3人とも、自宅で家族のためにシシ汁を作る機会は少ないようだ。
 さっそく、博子さんが丼に盛り付けてくれた。刻んだ小ネギを載せると、一層食欲をそそる色合いになった。ショウガが効いている。「ショウガが入ってなければ、ここまではなかったでしょうね」と、博子さん。肝心のシシ肉は、クセが無く程よい弾力の噛みごたえだ。臭みはまったく感じない。捕獲した猟師の捌く技術が優れていたのだろう。脂身はないので、どちらかといえばさっぱり味で、普段は肉を食べない私にも抵抗感がない。汁は、サツマイモの甘さがほんのり出て、優しい味だ。シシ汁と聞いた時のワイルドなイメージからは遠く離れた出来栄えである。
 「家族の夕食は、これでできたから、後はお風呂入って寝るだけ」と、吉川さん。全員が、丼に2杯ずついただいた。もう夕食は、食べられない。