昭和30(1955)年5月から平成19(2007)年9月末までの52年間、川棚町の市街地から上木場まで定期路線バスが通っていたと聞いた。地元住民の足としてバスが活躍していたのだ。「1日7本ばっか来よったですかね。乗り手も多かったですわ。学生はバスばっかやった」と、山下益夫さんに聞いた。いま上木場を歩くと、一軒の屋敷の庭に軽トラックを含めて2、3台の自家用車が置いてある光景は普通だ。一人一人が、自分の足として自家用車を持てる便利な時代となっている。しかし、一方で路線バスに乗り合わせて、世間話でもしながら街の病院や買い物に出かける日常的な暮らしはなくなり、意識しなくても地域の結びつきを深めていたバスの中の繋がりも途絶えてしまったと思うと、少し残念。
その木場線バスの終点だった所は、県道106号が少し広くなっている。ここから石木川を渡る橋の傍らに、朽ちかけた木造の大きな建物がある。最初は、小学校の分校でもあったのかと思っていた。
「昭和13(1938)年に茶工場が出来て、それまでは手でばっかいやったですかいね。石木川の水でタービン廻して、水力発電でモーターを廻しよったですよ。昭和15(1940)年4月に、試運転で一番茶を煎り方ですよ。平成3(1991)年までお茶をやりましたけど、もう合わんですわ」
茶工場の建っている土地の持ち主で、自宅が茶工場のすぐ上にある山下益夫さんである。
「タービンの機械は据わっとっとですけどね。お茶を煎る機械を廻すとにですね残っとりますけど、もう使われんとですもんね。16人で株を買(こ)うて、交替で出て行ってですね。夜は10時ごろまで廻して、朝は8時ごろ、早か人は6時かいですね。時給60円くらいで、ま、ちょっと日当(ひよ)取りくらいにはなったけど。お茶の商人さんがおってですね。虚空蔵山の向こうの佐賀県に不動山ちゅうとこがあっとですもんね。そこから茶を買いに来よらしたとですよ。山越えて担いでですけんね。達者かったですね。余計に買(こ)うて行かす時にゃ牛で背負わせて行きよったですよ。我が買うて、あっちこっち売って歩(さる)きよったですね」
上木場の農家16人が株主となって始めた茶工場だったが、なかなか思うようには運営できなかったようだ。上木場日向(ひなた)集落の一番上に暮らす上野昌美(うえの まさみ)さん(88)も茶工場の株主だった1人だ。
「もう、夜勤夜勤でですね。どーんどん、どんどんどんどん生茶が来っとですから。温度をどの位上げて良かか、最初はですね、戸惑ったです。薪で温度を上げて煎って、機械で揉んで、それをほどいて乾燥すっとです。お茶は難しかです。生の時にちゃんと肥料をやった人とやらん人。口にちょっと含んだだけで、味の美味しかねぇーって言うようなお茶が出来っと。肥料をやってある茶は、最初、生でさっと機械に入るっ時に、機械にようくっつきます。葉っぱが馴染むとです。肥料が入っとらんとは、もう、葉っぱの黄色かでパサパサ、水分が無かけん。だけん、やっぱ共同っていうとはですね。難しか」
それでも50年間ほどは茶工場を続けたが、真空パックの安いお茶が出回り始めると、経営は成り立たなくなっていった。山下益夫さんの父親、作松さんの代に始めたことだが、益夫さんには無念の思いが残っている。
「親父がだまされて、頭の良かとのおって。1年間の土地の賃貸が、米の5俵半ちゅうたかな。決めたって、決めたばっか。昔の60キロの5俵半ですかいね。昔は口ばっか、全然もろうとらんもん。自然と別れてしもてですね」
益夫さんに茶工場の中を見せてもらうと、当時の機械が据わったまま埃が厚く積もっていた。動かす時がいつか再び来るのではないかと、ほのかに期待していた益夫さんの気持ちが、茶工場を整理する決断を鈍らしたのかも知れない。