「田んぼを貸すだけで良かと思うとったら、主(ぬし)が行かんばということを聞いてですね。最初知らんやったとですけど。米作りでも何でん全部、部落でしてくれてですね。私たちは代表で行ったとです。米を作ったとが、うちの土地やけんが。苗も昔のごとしてですね。機械じゃのうして手植えしたとです。手伝いに来らした人が、30年ぶりに手植えしたと言いよらした。種蒔きから田植えから、刈るとも、神事のあっとですよね。神主さんが来らして、お祓いをしてですね。全部で5、6回くらい神事をしたですかね」 話が興に入ってきて、イチゴの箱詰めどころではなくなった。元さんが家の奥から一連の米作りを記録した大きな写真パネルを出してきて説明が始まった。 「もう行くギリギリになって役場から、モーニング持って行かんば、と言うけん。モーニングと留め袖は借りたとですよ、向こうで。天皇陛下と皇后陛下とが、こんくらい(1mちょっと)まで来らしたですよ。『あんまり声の荒立てんで話して下さい』って、リハーサルのあったもんね。声も小さかけんが、よう聞こえんごとしゃべらすもんね。1人ずつには声掛けらっさんで、みんなが並んだとこでですね」 ヨシ子さんにも想い出深い経験になったようだ。 「モーニングを着らんばとか何とか言うて、女の人は着物ですよ。行った人は、もう全部、そんな姿でですね。見事かったですよ。皇居にも神主さんのような鳥帽子を被って、笏(しゃく)を持った人がおらすとですよ。何県の人どうぞって呼ばして米の袋を開けて、見らして『良い米ができました』と言わすとですよ。『係わられた人にどうぞお礼を言って下さい』ちゅうてですね。11月に新嘗祭(にいなめさい)てあるでしょう。そいにお酒ば作らすちゅうですね。食べらすと思うたら、御神酒やった」 岸川さん夫妻は、11月から5月まで曜日に関係なく、午前中はイチゴの収穫をし、午後からは箱詰めに追われる毎日だ。出荷用のイチゴを詰める箱を、床から天井へ届くほど積み上げた部屋の中で、「髪の毛が入らんごとですね」と帽子を被ったまま黙々と作業をする。 「何十年て一緒にばっか働きよるけん、もう話すことはなかですよ。ラジオばっか聞いとります」と、ヨシ子さんが大きな声を上げて笑った。 2月までは完着(イチゴ全体に色が着く)で出荷していたが、3月からは7分か8分の色着きで出すことになる。「暖かくなって、傷みが出やすくなりますけん。腫れ物に触るごつ気を付けんとですね」と、元さん。「こん仕事は色々ボーナスを貰うとですよ、体のボーナスを。腰が痛かとかですね。作るのを高い棚でやるようにすると、(体は楽だけど)一反で600万円もかかっとですよ。油代も余計にかかるしですね。後継ぎが居らんもんやから、もう(出来ん)ですね」。 翌朝、岸川さんのイチゴハウスを訪ねると、腰を曲げて丁寧にイチゴを収穫する2人の姿があった。親指と人差し指でイチゴの付け根の茎を摘まんで、ちょっと捻りプチンと摘み切る。色着きした分だけを収穫し、中2日置いて3日後に同じハウスを順繰りに収穫する。イチゴに土曜も日曜もなく、休むことは出来ないのだ。 真っ白いイチゴの花にミツバチがやって来ている。 「蜂を借りとっとです、島原の方から。1箱22000円。3000匹くらい入っとるかな。ハウスが離れとるもんやから、ハウスごとに蜂の箱を置かないかんとですよ。3月いっぱいで借りる期限が来っとですよ。さらに花が咲く時は、追加料金があっとです。蜂で受粉せんと、奇形が出っとですよね。イチゴは蜂以外にはないでしょうね」 収穫を終えてハウスの外に出ると、汗ばんだ体に心地良い清々しい春の風が吹いていた。ハウスの前の道路に腰掛けて小休止だ。「熟れる前の2Sを食べると、桃の味がして美味しかとですよ」と、ヨシ子さんがまだ青いイチゴを差し出してくれた。その実を齧(かじ)ると、少年の頃に食べた固い桃のような懐かしい味がした。 明るい日差しが降り注ぐ春の気配だが、頬に当たる風は冷たい。日本棚田百選に選ばれている上木場日向(ひなた)集落の棚田はひっそりとしている。田植えの準備には、まだ早いのだ。そんな中、畦の脇に敷き込んであるビニールを剥がし、鍬で掘り返している夫婦が見えた。 「畦をコンクリートにして30年ぐらいになってですかね。沢ガニやらが穴を開けて、田んぼの水が漏っとです。畦の内側に、もう一つコンクリートを打つとですよ。今月中にやれば、材料代は役場からの補助があっけんですね」 上木場陰平(かげびら)集落の高い石垣がある家に住まう長尾俊明さん(65)と妻の三枝子さん(62)だ。 「棚田は経営的には成り立っていかんですね。この棚田の石垣は、上から造ったもんか下から造ったもんかですね。お寺の古か過去帳を見れば、元禄時代てありますもん。うちのは安永年間、240年くらいになっとでしょ。不便な所に家を建てて、良か所は田んぼにしたんじゃなかろか。ようこんな所まで登って来よったなあと思えるような上にも畑があったとですよ。昭和40年くらいまでは、牛が運んでですね。外に働きに行くということは無かったですもんね」 「食生活が、朝と昼は漬け物があれば良かで、粗食でしたもんね。麦飯よりも芋飯の方が味が良かったですもんね。麦飯は冷や飯になれば、旨(うも)なかったですもんね。タンパク源と言えば、クジラが安かったですもん。季節の節目節目に親父たちが嬉野温泉に行って、その帰りに彼杵(そのぎ)のクジラ屋に寄って、クジラを買って来っとがお土産」 俊明さんの話を聞きながら私がカメラを構えると、三枝子さんはフーッと遠くへ離れていく。 「うちんとは、写真嫌いですもん。旅行に行ってみんなで写真撮ろうとしても、絶対入らんとです。結婚してから、1枚の写真もなかとですよ。お前、遺影の写真はどうすっとかと言いよっとですよ」 幾人かの高齢者に、若い頃の暮らしぶりを伺うと、牛とクジラが話題に出ることが度々あった。テーラー(耕耘機)などの農機具が普及し始める昭和30年代までは、「牛庭」と呼ばれる行事が木場郷で行われていたようだ。 「牛庭は年に3回あったな。春庭と作上がり、秋上がり。昔は、牛で何でも仕事しよったでしょう。それで、牛の慰労会ですたい。先の方が直径3センチほどの鉄(かね)の棒を真っ赤に焼いたとを、牛の窪(くぼ)に当てて焼きよったとよ」 「牛の背中を押した時、骨の上じゃなくて、骨と骨の間の窪というとに、湯に浸けとった布を当てて、そこに鉄(かね)の焼いたとをジューッと押すとです。人間で言えば灸(やいと)ですよ」 真宗大谷派の行事として木場郷で2ヶ月に1回行われる「同朋会(どうぼうかい)」(注:「お茶を飲みながら」を参照)に集まった檀家の長尾栄吉さん(92)と山中光男さん(83)がお互いに、昔を思い出しながら語る。長尾さんと山中さんは従兄弟同士だ。そこに、山下益夫(えきお)さん(80)と山﨑隆行さん(66)、中野薫(かおる)さん(65)が加わって、牛庭の時の食べ物の話へ話題が移っていった。 「牛にはご馳走ないけど、人間は寄ってソーメンクジラが定番たい。クジラ肉に熱か湯ばかけて、湯かけクジラちゅうてね。この辺りは、山奥でクジラは塩クジラというて貯蔵すっとに塩をまぶしてあっとを、塩抜きするようなもんですたい。何もなかけど、ソーメンクジラで、ま、一杯と言いよったです。彼杵がクジラの本場ちゅうて、あそこにクジラが送って来よったってすよね」 「クジラは薄く切って、お湯をかくっとチリチリッと縮むとですよ。赤身の少し付いたとこもあるけど、だいたい白いとこ。ソーメンもクジラも、皿で我が好いたしこ取って良かたい。それにヌタか醤油をかけて。ヌタは簡単にはでけんです。だから、そん時は醤油」 「クジラの塩イワシんごとあっとを買うとって、縄できびって(縛って)塩しとってなあ。時々、山で焼いて食べたりしよったが。今ん世の中の変わったけんな。冷蔵庫も何もなかったしな」 「もう、質より量やったでね」 同朋会の講話を終えて住職が帰られた後、1時間ほども車座になって皆の話は続いた。外は、小雨が続いて野良仕事はできない。田植え前の準備には、まだ少し早い季節で、木場郷の農家には休息の1日だった。 |
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川棚町農業委員会 〒859-3692 長崎県東彼杵郡川棚町中組郷1518-1 電話 0956-82-5414 Fax. 0956-26-6125 ●取材地までの交通 JR九州大村線の川棚駅で下車。JR大村線は上り(佐世保方面行き)下り(長崎方面行き)ともに、普通列車とシーサイドライナー(快速列車)が、それぞれ1時間に1本ずつ運行している。川棚駅近くの西肥バス川棚バスセンター(Tel. 0956-82-2119)から波佐見線に乗り、石木バス停で下車。1日に20便、所要時間は約5分、料金は150円。但し、石木バス停からは、木場郷上木場まで5キロほどあるが、石木川に沿って県道106号を歩くことになる。 |