読者からのお便り
リトルヘブン余録

 旧子持村の取材が終わりに近づいていた夕暮れ時、木暮和子さんの畑で幼なじみの神道明さんに「日本に二つとない珍しい岩だから、ぜひ見ていってくれ」と薦められた子持山(1296.4m)の獅子岩。
 神道さんの説明によると、獅子岩は、子持山がまだ火山活動をしている時に火道に溜まったマグマがそのまま固まり、何万年という時間の中で周辺の土が浸食され、溶岩だけが露出している岩なのだそうだ。ここに上れば360度の展望があり、蛇行する利根川が流れる関東平野が一望できると言うのだ。何とも心惹かれる説明ではないか。神道さんは、普通の靴で片道一時間ほどの行程だと言う。私は、翌朝を待って、独りで獅子岩へ登る決心をした。
 翌朝6時に目を覚ますと、快晴だ。昨夕案内してもらった登山口へ車を飛ばした。駐車場に着くと、5人の登山客がちょうど出発というところだった。しかし、その装備を見て、私は不安になった。彼らは完全装備だ。立派な登山靴にスティックを持ち、小さめのリュックを背負い、ウールの登山ズボンに格子柄の登山シャツ。年格好は60歳代後半か。ほとんど私と同じ世代だ。一方、私の格好は、普通の運動靴に綿パンとナイロンのジャンパー。あまりにも軽装で顰蹙(ひんしゅく)ものだ。おまけに持ち物はカメラ一台だけ。食糧はゼロだ。片道一時間と聞いていたので、甘く見たと後悔したが後の祭り。
 登り口はまるで公園の散歩道だ。楽勝だなと思ったのは甘かった。垂直にそそり立つ柱状節理でできた屏風岩の下を過ぎ、チョロチョロと水の流れる沢を何度か横切り、杉林の中を沢伝いに登った。20分ほどで杉林を抜けると、紅葉の雑木林が始まった。ヤマモミジ、クマシデ、アカシデ、コナラ、リョウブ、クリ、ミズナラ、アオハダやヤマボウシなど、斜面を登るにつれ紅葉は赤から黄色へ変化していった。さらに登るとナツツバキ。すでに葉っぱは全て落ち、樹皮が剥がれて斑紋ができ始めている。斜面はさらに険しく、わずかでも岩の端に手が掛かると安堵する思いだった。
 登山の心得のない私は、小枝にピラピラと下がっている赤いテープの道標を途中で何度も見失い、何とか元の道に戻りながら、ようやく1時間30分ほどで獅子岩の頂上に辿り着いた。
 獅子岩の頂上は、遮るものは何もない。確かに360度の展望だ。しかし、登っている間に上空は雲に覆われ始めていた。時折、雲の切れ目から陽光が差し込み、眼下の紅葉の山々を輝かす。しかし、みるみるうちに霧が湧き上がってきて、私の体は霧に包まれてしまった。不安が胸をよこぎる。何の装備もないのだ。私は下山を急いだ。
 神道さんが誇らしげに語っていた360度の紅葉パノラマを堪能することはできなかったが、その雰囲気は辛うじて味わうことができた。地元に誇れる自然を持つことが、故郷へ注ぐ愛情の礎になるのだと、神道さんの得意そうな表情を思い出して納得した。

写真と文 芥川 仁