「あべこべに若けえもんに頼られちまったから、こんな遅くまでやってるけど。今日は、これしましょう、あれしましょうと思っても、半分もできやしない。誰もする人が居ないからしょうがないよ。大正の人間だからだめだいね。私の歳かい、88歳と4ヶ月。お祝いすると亡くなるちゅうんで、万座温泉に連れて行ってもらって、それでお仕舞い。子どもには恵まれて幸せだいね」
手元がようやく見えるほどの暗がりになっているのに、新田集落の外れにある畑に人影があった。木暮(こぐれ)マサさんだ。手押し車に鍬などの道具を積んで帰り支度をしていた。マサさんは、孫の久保田真由美(くぼた まゆみ)さん(41)が地元で開いているカフェで料理に使う野菜を、無農薬で作っているのだ。
「嫁に来たのは子持村の中の北牧(きたもく)というとこ。お客が来たら、すぐにお茶出さなきゃ怒られてね。ガスもない頃だから、火を燃してからでなけりゃ、お茶はいれられないんだから。いつも薪拾いに行ったりしてね。相手(夫)が60歳代で亡くなっちゃったからね。それから何とかやってこれたけど、車がないから大変だったよ。姉さん、あれで百姓できるんだろね、と言われるくらい手がきれいだったんだけどね」
マサさんは、手押し車を押して夕闇の中を帰っていった。利根川を挟んだ対岸の集落に灯が見え始めている。西側の水沢山と二ツ岳の上空に三日月が浮かんでいた。
その数日後の夕方、カフェ横の畑で働いているマサさんに再び出会った。こんどは娘の和子さん(65)と一緒だ。マサさんは腰を屈めて、何やら白っぽい粉を畑に撒いている。和子さんの幼なじみで循環型農業を研究している小渕憲男(おぶち のりお)さん(66)が、開発している土壌改良肥料なのだ。野菜の残り滓を発酵させた肥料で、ミネラルが多く含まれ、土の中で微生物が働いて腐葉土と同じような役割をするのだという。まだ商品化する前の段階で、試験的にマサさんの畑で使ってもらっているのだ。小渕さんが、木箱に入った肥料をスコップで掬(すく)ってポリバケツに入れると、マサさんが畑に撒きに行く。娘の和子さんは呑気そうにマサさんの横で、今年初めて生(な)ったという渋柿を採ったり、菊の花を摘んだりしている。