「だいたい、婿(むこ)が嫁の実家に行けば、『よく来た、よく来た』と歓迎してくれるもんだが、うちの嫁はすぐ上の家から来とるもんで、わしが行っても歓迎もせん。だいたい、結婚式の時に、わしの居場所なんかありゃせんのや。両家の親戚が集まって夜明けまで皆飲んでね。嫁さんは隣組にあいさつに行くし、お仲人(ちゅうにん)さんは飯茶碗に酒を一杯ずつ注いで回って。嫁さんは実家から文金高島田で歩いてきたもんやで、お仲人と連れ女、向こうのお仲人と嫁さんの兄弟とが一緒でね。うちの玄関を入る時に、狐が憑(つ)いてくるちゅう訳で、火薬だけの鉄砲を一発撃つんだ。雷管で音だけするの」
「明け方、お開きになる時に、鯉をお膳に載せて、皆が一匹ずつ引き出物に持って帰ったね。座敷の中でピョンと跳ねるやつもおってね。帰って、池に放したら生きとったちゅうてね。それと名披露(なびろ)といってね、嫁の名前のノブ子と書いた熨斗(のし)を付けたタオルも一緒にね。入籍なんかはね、子どもが出来てからじゃないと、せやしなかったから。足入れちゅうてね。1年くらいで喧嘩して、お仲人のところに飛び込んで行くで。すぐだと頭がかっかしとるで、自分とこに手伝いさせて、ほとぼりを冷ます期間を置かしてね。うちのノブ子が、お仲人のとこへ飛び込んだちゅうことは無かったと思うよ」
農武夫さんの話は、再び、歴史を鎌倉時代まで遡(さかのぼ)り、菅沼城にまつわる攻防戦記となった。現在も、当時の堀の跡が残っていると聞いたので、小高い丘になっている菅沼城跡へ行ってみたが、杉林となっていて堀らしき場所は見つけられない。ふっと、人の気配がして振り向くと、アザミの花を数本持った女性が、すぐ後ろに立っていた。城跡の横が墓地になっているので、先祖の墓へお参りに来たと言う原田チズコさん(86)だった。
「19歳の時に両親を続けて亡くしてね。兄弟はあったけど、皆死んじゃってね、若いうちに。それから、ま、苦労したからさ。これが人生なんだから、頑張ってきたちゅうことかな。いい話は何にもないの、私の人生には。先の主人を兵隊で亡くして、運が悪くて、まだ、入籍してなかったの。だから、家族として認めてもらえないじゃんね。2年一緒だったけど、軍人恩給は私のとこへは来ないじゃんね。後の主人が我が儘な人だったからね。お酒飲んで色んなこと言うと、私、喧嘩するの嫌だからパッと家出ちゃうじゃない。そうすっと飼っていたシェパードが、私に付いて出ちゃうじゃん。寒い冬の夜なんか、傍にひっついて温めてくれるでねぇ。いっつも一緒だったそのシェパートがね、軽トラックの荷台に乗せとったところに、通りがかった人を怪我させちゃったじゃんね。毎日病院へ連れて行って、お金も払ってね。それは私も、ま、いいだけど、犬は殺せちゅうじゃない。泣く泣く、本当に安楽死させた。未だに忘れんね。あの子の命だけは助けてほしかったじゃんね。切ない話だけどね。それを忘れることはできないね」
「うちは貧乏で、着るもんでも継ぎはぎだらけの物を着とったけど、私はばっし(末っ子)だから、可愛がってもらったじゃん。私がミカンが好きだったから、朝起きると、私にミカンをくれるのが行事だったじゃんね。そういう幸せが19歳まではあったちゅうことかなぁ」
墓参りを済ませたあと木陰に腰を下ろして、切ない思い出話を長い間聞かせてもらった。別れ際、「こんな苦労話、誰にもできないじゃんね。あんたに聞いてもらって、胸がスーッとした」とチズコさんが言ってくれて、私の気持ちは軽くなった。