愛知県新城市(しんしろし)作手地区は、平均標高が550メートルの高原台地を形成し、その周りをお盆の縁のように700メートルほどの山々が囲んでいる。作手地区の西側に位置する巴山(ともえやま・719.9m)の山頂に祀られている白髭神社(しらひげじんじゃ)には、矢作川(やはぎがわ)と豊川(とよがわ)、それに男川(おとがわ)という3本の川の水源があり、それが三河という語源になったといわれる。山頂には、それぞれの川の方向を示す三角柱の石碑が建ち、平安時代末期の歌人藤原俊成(ふじわら としなり)の歌が刻まれている。豊川の流れる方向を示す面に刻まれた俊成の歌は、「神代より わき出る水の 巴川 いくちよへぬと 知る人ぞなき」とあった。
16戸の農家がトマト栽培をする作手地区は、1年間の平均気温が12〜13℃の高原でありながら、年間降水量は2300ミリもある。夏秋トマトの栽培には絶好の気候なのだ。作手地区北部に位置する菅沼は、上中下(かみ なか しも)の3集落に分かれて50世帯が暮らしている。
「はや80歳になっちゃった。ハウスに来て座っちゃおるけどね。水をやったり、液肥をやったり、トマトの顔色を見たりはしとるけど。田口(現・設楽町)の農林学校を1年やって新制高校を昭和26(1951)年に卒業した時、県の林業改善指導員が『5万本の木を植えろ』と教えてくれてね。土をほじくってね、山の土の具合によってね。『ここは杉を植えなさい』『ここはヒノキを植えなさい』と、土を見て指導してくれたでね。雑木を伐って、それから何年かかったかね。ところが山の木が安くなっちゃって。昭和48(1973)年頃、何をやったら良いかという時に、『作手の水を売らまいか』という当時の村長の提案がヒントでね、トマトをやってみようと思い付いて、減農薬でね。一町歩を6人で始めた。露地だと病気が出やすいだけど、ハウスだと雨風が防げる。(ハウスの整備が終わって)栽培を始めてから36年になるね。自分でも朝昼晩、毎日トマトは食べとる」
清種さんは、朝6時前にハウスに出てくる。ハウス内の気温が上がる前に、2000本のトマトの根本に地下水を散水し、液肥を染み込ませるのだ。その間に、ハウス内の前日の最低気温と最高気温、それと湿度を左腰ポケットに入れた手帳に記録していく。手帳を見せてもらうと、びっしりと細かい数字が並んでいた。
「ポイントを書いといてね、夜、うちの農業日誌に書き写す。昭和26年に高校を卒業してずっと付けとるもんでね。今使っとる3年連用日誌は、労働時間も書けるもんでね。最近はすぐに忘れるでね。記録をしとかなどうにもならん」
すでに62年間も農業日誌を付け続けているのだ。
「トマトは野菜の中では一番人気があって、6月中旬から出荷し始めて、ずっと高値が続いとるよ。世話するのもやり甲斐があるね」。清種さんは、畝の間に敷き詰めた籾殻の上を電動の作業用イスに座って移動しながら、出荷間際のトマトの玉1つひとつを手に取り、わずかな傷も見逃さず摘果していく。「良い玉だけ付けてやらんと、木が弱っていくから。傷のある玉でも同じように栄養は摂るからね」。
金曜日以外は毎日出荷である。出荷の準備と並行して、摘果や花がらを取り除く作業の他に、誘引というトマトの木の成長に合わせて少しずつ木を寝かせていく作業がある。清種さんの仕事ぶりを見ていると、朝6時から夕方6時まで、食事や休憩の時間はあるものの、1日のほとんどをハウスの中で過ごしているようだ。
「基本は土作りだから、10月ごろに刈り取っておいた菅沼川のヨシを小さくカットして、ひな鳥の鶏糞と混ぜて積んどくだね。山の落ち葉やなんかが腐って、森林から栄養が入った水が出てくる。それをヨシが吸うので、ヨシが生えとるちゅうことは水がきれいになっとるちゅうことだね。1月なんかは仕事が暇なもんで、ぼかし肥料と言うてね、米ぬかと魚粉なんかをミキサーで混ぜくりながら、12アールに1トンのぼかしを入れるんだね」
梅雨明け直後、新城市は全国ニュースに出るほどの猛暑が続いたが、菅沼集落では青々と伸びた稲の上を山からの涼風が吹き抜けていく。菅沼集落を走る県道下の小さな畑の傍らに、赤い花を付けたタチアオイが1本立っていた。花の蜜を吸いにきているコガネムシの写真を撮っていると、男性が近寄ってきた。
「草刈りしよる時に、20センチばっか地面から出とって、葵の紋に似たような葉っぱだったんで残しとんやけど、背丈より大きくなって。花の盛りの時は、ほんときれいでした。防獣柵の中の畑にあった種芋をイノシシに掘られて、踏み倒したけど残してたやつを、また、やられてね」
県道上の家の河合春男さん(63)だ。見慣れない私を、確かめに来られたようだ。今夜は、自宅で通夜が営まれると告げて帰っていった。下の田んぼに肥料を撒いている男性がいる。撒き終えた肥料を補充するため農道に戻ってきたところで話を聞いた。田んぼの上の家の原田道量(みちかず)さん(59)だ。
「米作りも今や道楽。旨い米を食いたいという願望でね。こだわる人はこだわってやるんですよ。1合ぐらいの玄米をJAへ持って行くとね、食味値を計ってくれるんですけどね。値が80あると、かなり旨い米なんですよ。それが楽しみでね。魚沼のコシヒカリより、こっちの方が旨いんじゃないかと言っているんですよ」
農道に腰掛けて「田植え靴」を水路に浸けたままジャブジャブと音を立てて、楽しそうに話す道量さんは、平日は勤めに出ていて土日曜日だけ農業だ。「家で話し好きの男が暇してるから、話しを聞きに行ってやって下さい」と紹介されたのが、「お茶を飲みながら」に登場する父親の原田農武夫さん(83)だった。
さっそく農武夫さんを訪ねると、裏の畑で大根の虫取りをしていた。「狡(こす)いもんでね。命は誰も惜しいだね。天然でね。葉の裏にこそっと隠れておって、人が居らんようになると出てくるもんで。虫の食べるものが美味しいだ。虫の食べんようなものは美味しくはないだ」。葉っぱの裏に潜んでいる小さな虫を一匹ずつ捕って、水を入れた空き缶に入れていた。菅沼集落の昔話を聞かせてほしいとお願いする。
「徳川家康が江戸へ上った時に、三河弁の家来を連れて行ったので、今の標準語は、三河弁が基準になっとるだけど」。なんだか過激な話が始まった。