読者からのお便り
リトルヘブン余録

 取材で薩摩川内市役所入来支所を訪ねた時、支所の前に建ち並ぶ家並みの端正さに驚いた。整然とした区画に玉石垣と生け垣で一軒一軒の家が囲まれている。何より玉石を積み上げた石垣が美しい。国の伝統的建造物群保存地区に指定されている「入来麓武家屋敷群」である。
 中世の山城であった清色城(きよしきじょう)の武家集落として構成され、西の清色城と北の向山(むかえんやま)と東の山に囲まれた平地である。その中心を流れる樋脇川(ひわきがわ)を天然の堀として見立てていたようだ。
 武家屋敷群の屋敷には、現在も住民が暮らしていて、勝手に敷地内に立ち入ることはできない。ところが最近、この武家屋敷群の奥まった一角に「旧増田家住宅」という薩摩地方の特徴を持つ武家住宅が修復され公開されている。
 旧増田家住宅は、明治2年(1869)の廃仏毀釈で廃寺になった延命院の跡地に建てられたようで、家主だった増田家は代々医者を営み、昭和25年ごろまでは麓(ふもと)地区で眼科医として診療していた。使用されていた増田眼科医院の看板と薬室の掛札は、敷地内に復元された石倉に保存されている。
 敷地入り口の石敢当(せっかんとう)に明治6年の刻があることから、母屋はこの頃に建築されたと推定されている。薩摩地方の武家屋敷の特徴は、別棟型民家といわれ「おもて」と「なかえ」から構成されている。「おもて」は、接客空間として使用され、玄関、次の間、座敷、うちざと呼ばれる部屋と寝室に使う納戸で構成され、「なかえ」は、食堂兼居間として使う部屋と調理などをする土間から構成されている。
 「おもて」の床と棟が「なかえ」よりも高くなっているのは、武士社会における接客空間として、主人が使用する建物の格式を重んじたからのようだ。
 「入来町誌」の記述によれば、明治初年の人口の65%が士族だったとある。その時代の全国における士族の割合が、5〜6%であったのに比べると異常に高い。薩摩藩独特の外城制度のためであるが、食料自給のため士族といえども農業に精を出し、さらに棚田など開墾に励む必要があっただろう。
 「入来麓武家屋敷群」を散策しながら、薩摩地方の歴史に思いを馳せると、先祖が汗と涙で作り続けてきた内之尾の棚田を、「誰であろうが、きれいにしてくれりゃいい」と言っていた藤井道博さんの切実な言葉が思い出された。

写真・文 芥川 仁

参考資料:薩摩川内市教育委員会教育部文化課発行のパンフレット「入来麓伝統的建造物群保存地区」
注:入来郷の地に600年もの長い間、地頭だった入来院家に伝来している「入来院家文書」を詳細な注釈で解析し、日本の封建制度の成り立ちを説明したアメリカエール大学教授だった朝河貫一の論文「THE DOCUMENT OF IRIKI(入来文書)」(1929)は、日本封建制研究の根本資料として世界的に有名。