読者からのお便り


 下の集落を歩いていると、竹藪で人の気配がする。鹿児島市内の自宅から子ども時代を過ごした故郷の家に通って農業をしている黒武者一夫(くろむしゃ かずお)さん(71)が、竹を切り出していた。「曲がった竹ばっかやから、なかなか思うようにはいかんですよ。トマトとキュウリの横に網を張らないかんで、早よ言えば、それの土台ですね」。一夫さんは、30年余り鹿児島市内の自動車学校で教員をしていたが、亡くなった両親の住んでいた家と畑を守るため、定年になってから「よか天気やったら」週4日ほど通ってきている。
 「私(わ)がおる頃は、内之尾に48軒ばっかあったです。花見なんかは、この家でしよったですよ、家が大きいから。8畳が4つと縁側が家の周りに付いとって38坪あります。自分の山の木だからな、鴨居も敷居も通しですよ。柱も5寸でしょう。かごんま(鹿児島)にあれば良かっだろうけど、田舎じゃどげんもならん」
 一夫さん自慢の家なのだ。
 「田んぼは長く放っといたから、もうヤボ(藪)になっとる。畑どん作って、何やかや野菜をしとれば、昼は短い訳でしょう。時間が早よ来ますよ」
 一夫さんは、夕陽が西の杉林に隠れるのを待っていた。「陽が照っとるもんやから、水はやりゃならんと。地だ(地面)が焼けとっから根が煮えてしまう訳ですよね」。陽が陰った後で野菜に水をやり終えると、間引きした小さな野菜を車のトランクに積み込んで自宅へ帰って行った。
 一夫さんを見送ってから夕暮れの空を見上げると、内之尾川沿いで煙が上がっている。煙を頼りに獣除けのネットに沿って細い農道を行くと、大きな納屋の前で姉さん被りの女性が育苗箱の床作りをしていた。一夫さんの義理の従姉妹になる黒武者ミキ子さん(65)だ。
 「今日は、孫が4人帰ってきて、野菜を採ったり木イチゴを採ったりして、今、鹿児島へ帰ったとこなんです。木イチゴを手にいっぱい採っていきましたよ。それで、仕事が今になってしまって。お陰さまで孫分限者(ぶげんしゃ)です。10人居るんですよ、孫が。息子がちょいちょい帰ってきて手伝ってくれるし、娘も帰ってくるし、食べるだけは米を作らないとね。皆が持って行くからね。孫たちがしょっちゅう帰って来るもんで、魚捕ったりするんですよ、そこの川で」
 育苗箱に培土を入れながら、孫の話はつきないが、いつしか思い出話に。
 「5月には、チマキ(灰汁まき)を子どもたちも一緒に皆で作るの。45本くらい作ったかな。きな粉餅ちゅうてね。湯がく間に3時間くらい掛かるでしょう。その間に、ここの川で遊んでね。小っちゃい岩エビが一杯いたんだよ。ザルで掬いよったんですよ。煎って食べよったよね。私が嫁に来てしばらくはおったけどね。山太郎ガニやらウナギもおったんですよ、20年ばかり前までは。時代の流れでしょうね、やっぱこれも」
 作業が終わり育苗箱を積み上げたミキ子さんは、一日の仕事を終えて安堵の表情だ。

   

下14戸、中8戸、上10戸の集落 学校もあったし郵便局もあった
 内之尾集落では、6月中旬の田植えに向けて、それぞれが準備に追われていた。翌日は、道博さんとノリヱさん夫妻も、育苗箱に培土を入れる作業をしていた。
 「以前は、ミネアサヒという品種を植えたことがありますけど、品種を変えれば植える時期が変わるからね。最初に植えた田んぼにイノシシが来るから、今は、皆と一緒のヒノヒカリを植えることにしたんです」
 道博さん夫妻は、田んぼの他に親牛4頭と子牛3頭を飼っている。この6月に、もう一頭生まれる予定だ。牛小屋の梁に古いツバメの巣があった。
 「ツバメが牛小屋に巣を作って雛(ひな)を孵(かえ)すのは良いけど、2回目は、ヘビの動きが活発になる時期やから、卵をやられるんですよ。それでツバメが出て行く時には、幸福が逃げて行くような、そんな気がするもの。それで、今は、ツバメが来ても追い返しよるんです」
 こんな優しさを内に秘めた道博さんだが、一方で「棚田を守ることは集落を守ることだ」という揺るぎない信念を感じる。
 「出稼ぎが流行った時期があったでしょう。あの当時、全然出稼ぎに行かなかったのは、上の集落で2人だけ。葬式なんかが大変だったですよ、男手が足らなくて」
 内之尾集落には、先祖から継承されていた民俗芸能の「棒踊り」と「鎌踊り」があったが、現在はそれも途絶えている。道博さんは、年長者に教えを請うたことがあったが実現しなかった。
 「4人が一組だったから、皆が、動きが違うんですよね。私たちの世代は覚えきってなかったから、子どもたちに教えられないんですよ。だから、自然消滅。先輩たちに教えてもらおうと、公民館にスイカと麦茶冷やして持っていって頼んだことがあったけど、実現しなかった。ご先祖様から怒られるのはあんたたちだよ。あんたたちには食べらせん、と言ってスイカは持って帰った。私ゃ悔しくて。鎌と3尺棒の踊りは、他にはないんですよ。ここの集落は、私の世代までですよ。農機具がない頃には「結い」というのがあったでしょうが。それが、機械があれば家族でできるでしょうが。それも原因の一つなんでしょうね」
 晴天が何日も続いていた。昼前の棚田に働く人影が見える。秀夫さんとマツヱさん夫妻だ。「スイカの苗を植えてるもんだから、ビニールを掛けにきた」と、秀夫さん。他には誰の姿も見えない棚田を見回して、マツヱさんが若い頃の風景を思い出したようだ。
 「昭和32年に嫁に来た時には、あっちでもこっちでもキャーキャーでしたよ。田んぼの中で野球をしてましたよ。今は、声がしなくなったね。子どもを鹿児島市内の高校に出す時ゃ大変やった。バス停まで歩いて40分かかるの。6時40分発の鹿児島行きのバスに乗せるのに、弁当作って送り出すので精一杯。良いおかずもしてやれんでね。卵焼き、ソーセージとかコロッケ。男ばっか3人。ワンパターンのおかず作ってなあと、40歳過ぎた衆が、今でも言うとですよね。月13000円のバス代、これが痛かったですよ。今考えれば、良くやったなあ。一日も休まず、良くやったなあ。それも思い出や。毎月のバス代がとんでもない大金やった」
 マツヱさんは、自分が子どもだった頃まで思い出したようだ。
 「イワシの魚が弁当のおかずだと思うと、楽しかった。半分は前の晩に食べて、半分は弁当のご飯の上にべたっとのせてね。お昼は、お魚だと思うと、それが、すごく楽しかった。楽しいお昼だったなあ。今でも、頭から尻尾まできれいに食べるけど、疲れたなあと思う時ゃ、魚を焼いて食べたら元気が出る。今日は、何をしようかと思い悩む日が、まだ、私には来んが。あれもせないかん、これもせないかんと、せないかんことばっかり。毎日が楽しい。今から草やら何やら生えてくるからね」
 夕暮れが近くなると、猪股(いのまた)アキミさん(75)が、以前に刈っておいた草を燃やしに家の前の棚田に出てきた。ゆっくりゆっくり乾いた草をかき集め、少しずつ燃やしていく。アキミさんは、足が不自由なため目の前の棚田でも軽トラックでやって来る。
 「家(うち)におったどん、少しでん草を焼いとかな思うて、出てきたどん」
 その日は、陽が西の山に隠れてからも、獣除け柵の扉が開いたままになっていた。アキミさんは、まだ仕事を続けているのかと気になって棚田を覗くと、ブト除けネットを被った男性が、畦周りの土を起こしている。アキミさんの娘婿の流川俊二郎(ながれかわ しゅんじろう)さん(55)が、勤めを終えてから代掻きの準備に来ていたのだ。
 「耕耘機の爪が入らない所を、前もって鍬で耕しているんです」と、独りで黙々と鍬を使っている。少し遅れて、上の段の棚田で鍬を使っているアキミさんの娘の豊子(とよこ)さん(52)の姿もあった。やはり、仕事を終えて真っ直ぐに駆けつけたようだ。とっくに陽は落ちているが、手元の見える明るさは残っている。俊二郎さんと豊子さん夫妻は、夕月が西の空に姿を見せる頃まで実家の棚田を耕していたようだ。
 様々な事情があって内之尾集落を離れた人々が、それぞれの思いを込めて棚田とかかわることで、何とか棚田の現状を維持しようとしている。道博さんに感じる「棚田を守ることは集落を守ることだ」という信念は、内之尾の棚田にかかわる全ての人々に貫かれていると思った。

写真・文 芥川 仁