読者からのお便り
リトルヘブン余録

 いつものことではあるが、取材先では多くの方々に話を聞かせていただく。実際に記事に活かせるのは、その何分の一だ。そんな訳で今号の「余録」では、興味深いお話を聞かせてもらいながら、記事に活かせなかった方の話をお伝えしたい。
 本村の氏神様である春日大明神の鳥居から、宮池の堤に沿って真っ直ぐに一本道が伸びている。本村下の集落から上がってきた道と合流する三叉路に、石を積み上げて造った高さ1メートル余りの春日大明神のお旅所がある。お旅所は文字通り、春日大明神の秋祭りの際に御輿が折り返す休憩所だ。その後ろの田んぼの土手は、下2メートルほどが石垣になっていて、その上は土を固めて築き、芝を張り込んだ高さ5メートルほどの土手だ。カーブを描いて三叉路を回り込み、末広がりに築いた土手の草は、きれいに刈り込んであった。
 お旅所の下に一軒の家がある。そこに暮らす小野坂桂さん(94)が自力で築いた土手だ。
 「朝倉川が溢れた大きな台風の時に、用水路の水も溢れてきて、ここらの田んぼは全部流されてしもたんじゃ。泥が流されとるから、泥が足らん。石垣の裏の泥が流れたら、狂うでな。山から泥を掘って、自分で直したんじゃ。トップカーいうんが流行ってな。これで泥運んだけど、土手直すためにトップカー買(こ)うたようなもんじゃ。もうしょうない(どうしようもない)のに、銭がないから、めいめいが直さなしゃーない。道具はなしな、お金はなしな。間違いなしに2ヶ月は掛かったわ。私の若い頃は仕事もなかったんじゃ。田んぼだけじゃったら、何年経っても100万円の金はでけんぞ。今は、機械がなかったらでけん。機械買うたら納屋建てないかん」
 桂さんが、80歳代後半の時の話である。田んぼに対する執念というのか愛情が深いというのか、桂さんの意志と努力に圧倒された。桂さんに、何の取材なのかと伝えるため「littleheaven」の名刺を差し上げた。すると桂さんは、「英語はいかん。ローマ字の29か30あるのは覚えとるけどな」と、一蹴された。
 朝倉川に沿った農道を歩いていると、犬と散歩をしている上城(うえしろ)シヅヱさん(84)に、城池(じょういけ)の近くで出会った。
 「17歳で高松市の山ん中から嫁いで来とんのじゃ。昭和20年の11月じゃ。娘というのは全部アメリカに連れて行かれるちゅうて、顔に墨ぬって過ごせ、包帯巻いとけ言いよった。それで、早よ嫁にやれちゅうて嫁に来たんじゃ。薄暗になってタクシーで家に着いたら、両家の親戚の人が宴会しての、11時頃まで。明くる朝は、10時にお客するわの、地元の婦人会を呼んで。お願いします言うての、お餅5つずつと風呂敷を箱に入れて配って、料理を出しての。お婿さんは、お酒注いで回らないかん。私ゃ、東京からの引き揚げ者がおって日本髪結うてもろて、それは嬉しかったけど、写真屋がないんや。主人が20歳で私が17歳やけんな」
 「それで、2時が来たら、姑が言うんよ。『はよ、田んぼに行きないよ。皆、稲刈りしよるけん。客の仕舞えはええから』。嫁をもろたとはな言わせんで。『手間をもろたけに、よろしゅうお願いします』という挨拶じゃ。3年くらい経って、初めて2人で高松へ遊びに行くことができた。そりゃ苦労したで。戦争中に生まれとるけんの。それでも悔いはない。健康でありさえすれば、働く気力はある。84歳になっても、池から水入れてきて、田んぼの地ごしらえからせないかん。若い衆(息子夫妻)が仕事に出とるからの。孫が学校に行きよんで、息子がなんぼ働いても足らへん。親が健康に産んでくれて感謝しとんじゃ」
 リトルヘブンの取材で話を聞かせていただく人々は、ほとんど70歳代か80歳代だ。その方々の若い時の話は、いつも私の想像を超える。そんな貴重な話を聞かせてもらうたびに、その時代を想像することもできないほど豊かになった私たちの今の暮らしは、その方々の苦労や努力のお陰なのだと身に沁みて思う。

写真・文 芥川 仁