読者からのお便り

 

 

 

 

 

 私で、うちの砥石屋は5代目になるんですけどな、江戸時代の末期から明治の頃は、砥石のお陰でうちも豊かであったように思うわ。当時の話を聞いたら、近江商人に砥石を売っとったらしいんですよ。保津峡(ほずきょう)までは牛で運んで行ったんやな。そこからは筏(いかだ)で、保津峡を嵐山まで送ってましたわ。嵐山から近江までは、どないして運んだんやろ。大変なことやっとったんやな。年に1回しか勘定をくれなんだと聞いとりますわ。うちの職人さんは食べられたら良かったんかな。お米や野菜は、うちから出しとったから。ようけ職人さんが居らはりましたで。私が子どもの折でも、母屋に6畳が2間あるけど、それに人がいっぱいやったわ。ま、30人ぐらい居ったんと違うやろか。
 砥石採るのは、ここから見える一番向こうの背の高い山ですよ。大平山いうですわ。元は樒原の領地やったんやけど、なんや領地争いで喧嘩ばっかりして、喧嘩両成敗で樒原の人と相手の人の首を刎(は)ねて埋(い)けたという話しを聞いとりますわ。ま、明治前ですな。
 今も大平山から採掘をやっとります。測量して砥石の層を皆調べたんやけど、思うた通りやないな。曲がって外れて、山ん中は分からんわ。山の層いうのは、いがんでいがんで(曲がって曲がって)分かっとるようで分からん。
 うちの砥石は、刀を研ぐ砥石ですわ。そんで、今まで生き残れてまんのや。刀だけやからね。刀はね、研いだら薄くなってくるんですよ。そうなったら刀の値打ちがのうなってくるんですよ。うちの内雲砥石は、減らんのや。減らずと研げるんですよ。それをよう探したな思うて、うちの先代は偉いな思うて感心しとんですわ。他に日本には無いみたいやなあ。
 元は、うちの砥石は「内曇砥石」、こう言うたんです。昭和天皇が即位された折に、護身刀というのを天皇陛下は持ってはりますわな、それで、昭和2年に献上してくれという話しになって、おじいさんが「内曇砥石」を宮内庁へ持って行ったそうですわ。そんでね、職人さんを朝から風呂に入れて、身を清めさせて、砥石作りをさせて、それで持って行ったように聞いてますわ。そんなら宮内庁で、曇ちゅう字は、天皇陛下が曇るちゅうのはいかんと、雲にせえと、そんで「日」を取ったんです。あの時分は、天皇陛下は偉い人ですわな。神さんですわな。うちは、それから「内雲砥石」にしとんです。おじいさんの代ですわ。
 あのね、砥石というのは原石で採れるんです。それを四角に切って、使いやすいように加工するんですよ。うちに研ぎ屋さんが来(き)やはるのは2年に一遍来やはるわ。だいたい2年でのうなるのかな。研ぎ屋さん言うのは、色んな時代の刀を研がななりませんわな。研ぎ屋さんにすると、刀に合う砥石があるんですな。刀によって皆、砥石が違うみたいなな。ま、作家にもよるやろしね。そんで、砥石をものすごようけ持ってはるわ。硬い石やら軟らかい石やら色んなもん。内雲砥石というのは、小(こま)こうに小こうにして使うんですよ。最終仕上げは、親指ほどの大きさの砥石で、刀の刃先の波紋をなぞるように研いでいくんです。そんなら波紋がすーっと出てくる。ま、美術工芸品になったから、そうなったんですけど。
 学者によると、中国の黄砂が太平洋に溜まって、それが堆積して、プレートに乗って隆起してきたのが砥石。粒子の細かいのが太平洋まで飛んで行くのやな。砥石の層は5層になっとるのですわ。圧の掛かる一番下が巣板砥石、その上が並砥石、戸前砥石、八枚砥石、それで一番上が内雲砥石なんですわ。硬い石は巣板、柔いのが内雲ですわ。硬いか軟らかいか、持ったら分かりますわ。
 大正12年の関東大震災の後では、ごっつう砥石が売れたと先代から聞いとりますわ。それで、阪神淡路大震災の後に、よし、ごっつう売れると思うたけど、何にも売れへんわ。建築の様式が変わってしもとった。今時の大工さんの道具は使い捨てですわ。それでも神社仏閣を作っとる大工は、美しい仕上げをしとるなあ。奈良、京都にはそういう棟梁が居ります。戦災に遭うてませんからな、若い者も一生懸命やっとるな。初めは、軟らかい石じゃないと、よう研げやせんわ。内雲砥石ですわな。
 砥石から日本文化が見えてきますやろ。それでも、砥石は、何となく陰のもんですわ。そうと言っても無くてはならんもん。刃物と砥石は共存共栄。
 ほんなら、そろそろ加工所見てもらおか。