読者からのお便り
リトルヘブン余録
 福岡県には2つの村がある。朝倉郡東峰村と今号で取材をさせていただいた田川郡赤村だ。赤村を取材先としたのは、何と言っても123年もの間、村制が変化していないという歴史の魅力だった。
 「赤」は、古くは「我鹿」の字を当てていた。日本書紀の記述に、この地域を「我鹿、此をば阿柯(あか)と云う」とあり、その後、貞観年間(859〜877)のころから「赤」の字を用いるようになったと村史にある。奈良時代から歴史に登場している地域であることが、これで分かる。
 明治22(1889)年に赤村が誕生する前、廃藩置県が実施された明治4(1871)年11月、当時庄屋だった小川次男さん(虫の眼里の声 記事参照)宅は、祖父の義兄になる小川権治の時代に、田川郡の百姓一揆で被害に遭っている。「小川家を乗っ取ろうというので、建て替える前の家の床柱に、鉈(なた)かなんかで傷を付けてですね。捨ててしまいましたけど、今思えば取っちょけば良かったなと思います」と、次男さん。
 赤村史の年表を読んでみると、村誕生直後に大洪水や大水害といった記述が多い。土木工事が進む以前の今川は、暴れ川だったことが伺える。
 明治37(1904)年には、赤村財力調査が実施され「戸数635戸、総人口3290人。農業503戸、工業18戸、商業35戸、雑業72戸。牛310頭、馬117頭、鶏949羽、蜂15」とある。
 今年、平成24(2012)年8月末の戸数は1496戸、総人口は3424人である。農業は434戸、その内専業農家は76戸となっている。推移は不明だが、現在の村の総人口は108年前と大差ない。しかし、1戸当たりの家族数は、5.2人から2.3人に減っている。小家族という核家族化現象は、農家の減少と相まって自然豊かな赤村にも及んでいるのだ。
 日清戦争の殊勲者が勲八等瑞宝章を受けた記述と共に、戦死者の名前もある。第二次世界大戦の影響も赤村に及ぶ。昭和14(1939)年の記述には、「モンペをはくようになった」とか「食料不足のため赤村の桑畑が、イモや大根の畑にかわる」とある。昭和20(1945)年には、上赤地区に米軍のB29が6機来襲し、爆弾を投下している。死亡5人、負傷者3人、焼失家屋4戸の記述がある。
 戦後の復興は順調で、昭和25(1950)年の田川青果市場の記録によると、ゴボウ、ネギ、タマネギ、サツマイモ、キュウリ、ナス、豆、レンコン、里芋、白菜など野菜の出荷量は、赤村が1位となっている。昭和39(1964)年には、オリンピック東京大会を記念して、赤村健脚競技大会が開催されている。オリンピック東京大会が、九州の赤村にまで高揚感をもたらしていたのだ。
 これら年表の記述は、村の歴史であるが、村人の家族の歴史でもある。
 「リトルヘブン」では、それら家族の営みを寄り添うように見せていただくことで、身近にある「幸せ」の姿を伝えていきたいと願っている。

 さて、Web版「リトルヘブン」は、今号が創刊号です。季刊新聞として創刊した2006年夏号から数えると25号になります。
 「リトルヘブン」に託した願いを、季刊新聞創刊号に、私は次のように書かかせていただいた。

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 すでに私たちの国は、世界に類を見ない物質的な豊かさを手にしている。終戦直後に生まれた私も、その恩恵を充分に受けて育った。しかし、誰もがすでに気づいていることだが、その一方で身近な自然は失われ、暮らしを支えてきた地域の太い絆が、揺らぎ始めている。
 「リトルヘブン」では、身近な自然が残る各地を訪ね、自然と共に暮らす人びとの魅力をお伝えしたい。
 「幸せ」の意味を、改めて考える機会にしていただければと、願っているからである。
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 新しい時代に沿う姿を目指してスタートするWeb版「リトルヘブン」。このWeb版でも、自然と共に暮らす人びとの魅力をお伝えしたいと願っています。
 Web版は2ヶ月毎に発行します。
 今後とも、ご愛読をよろしくお願い申し上げます。
写真・文 芥川 仁

 

 

 

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